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All need is……/OpenHeartは水の中に

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 ……暑い。いくら「心頭滅却すれば」の精神で挑んでも、暑いものは暑い。
 派手に体を動かしたりしているわけではないのに、じわっと額に汗が浮かんでくる。浮かんできた汗はやがて滴と化し、頬を伝って流れ落ちていく。別に化粧をしてるわけでもないので、汗自体はせいぜい鬱陶しいくらいで済んでいる。世の女子生徒はきっとこの汗も大敵で、休み時間の度にトイレで直してたりするのだろうか。面倒なことこの上ない。
 それはさておき。暑いので飲み物が手放せない。さすがにこんな状態で熱い茶系統は飲む気も起きないので、もっぱらミネラルウォーターなのだが、手を伸ばした先にあったボトルは、すでに重さを失っていた。

「二木さん、買ってこようか?」

 私の目の前で作業をしてた人間が、そんな声をかけてくる。

「……お願いするわ。はいこれ小銭」

 きっちり110円を渡すと、彼は席を立ち、廊下へと消えていった。その姿を見て、なんとなく一つ息を吐く。
 直枝理樹。なぜだか、彼は寮関係の手伝いをしている。
 例の事故で、彼の友人たちがみな一様に入院していたのもあったのか、初めのころは暇つぶし気味に手伝いに来ていた。そもそも、それ以前に彼が寮の手伝いをしていたことは一度もなかったのだが、彼曰く「なんだか自然にやってるんだよね」とのことで、事実たいていの仕事は何も言わなくてもやっている。
 記憶は残ってなくても、感知できない記録が、彼の中にうずもれているのだろう。それについてはとやかく言うつもりはないし、引きずりだすつもりもない。ひとときの夢は、夢なのだから。
 今この部屋には私一人しかいない。先ほど直枝が出て行くまでは二人だけ。寮長はどちらも、泳ぎに行くとかいって今日は来ていない。自由気ままなのは構わないが、人に迷惑をかけることだけは勘弁してほしい。だがそれで止まる人たちでもない。

「……泳ぐ、か」

 思考がぐるんぐるんと暑さにやられ始め出したところで、自分の脳内を流れていったキーワードをなぜだか回収していた。

 泳ぐ。
 それは気持ちいことなのだろうか。いや、気持ちいいに決まってる。ましてこんな暑い日なら。遠い昔に、それは遊びとはかけ離れた状態だったけどプールで泳いだことがある。下衆な輩どもに見られながら泳いだ記憶。妹と一緒だったのに、そこに楽しかったという感情は存在しない。

「……泳いでみたいなあ」
「え、プールに行きたいの?」

 タイミング悪く、私のつぶやきが聞こえるくらいのときに直枝が返ってきた。私に水を渡しながら、少し驚いたような表情を浮かべる。

「なに、その"二木さんでも泳ぎたいなんて思うことがあるのか"と言わんばかりの顔は」
「……実によくできた言いがかりだけど、ごめん、あってるから何も言えない」
「そう。まあいいわ。私だって、たまには思うこともあるわよ。まあ、人前で泳ぐなんてどうやっても無理だけど」

 私の返答にクエスチョンを頭に浮かべる直枝。そうか、今目の前にいる現実の直枝は、傷のことを知らないのか。

「まあいろいろあって、腕とか背中とか見せられないのよ。だから海やプールで泳ぐことなんてできない。この学校の体育の授業、水泳が選択制で本当によかったと思ってるくらいなんだから」
「そ、そっか……」

 直枝はあごに手を当て、何やら考え事を始める。何を考えてるか考えるつもりもなかったので、手を止めていた未整理の書類に目をやり、一枚一枚目を通していく作業を再開する。時折、寮会向けの要望書としては不適当なものが混じっていたり、あるいはあからさまに笑いを取ろうとするものが混じっていたりするのだが、作業と思えば何も思うことはなくゴミ箱いきに出来る。
 シャッシャッと紙をめくる音。少しだけ湿気ている。

「ねえ、誰かに見られなければいいんだよね?」

 3分くらいたったところで、顔が上がり、唐突にそんなことを言い出す。

「何の話?」
「だから、泳ぐこと」
「まあ、誰もいないところなら泳いでみたいけど、そんなところプライベートビーチか豪邸でもない限り、あるはずないでしょう。馬鹿なこと言ってないで、少しは」
「あのね、二木さん。泳いでみたい?」

 私の言葉を遮った直枝の眼には、あの世界と同じような強さが宿っていた。



「直枝、とても嫌な予感がするのだけど」

 時間が8時間ほど飛んで、真夜中24時。よい子はすでに寝てなければいけない時間に、なぜだか私は学校の校門の前で佇んでいた。

「大丈夫だよ、たぶん」

 何となく頼れない回答を返したのは、私をここに呼び出した本人である。その手にはかばんが二つ。

「はい、二木さん」

 そのうちを渡されて、つい受け取ってしまう。

「何? これ」
「水着。たぶん大丈夫」
「……大丈夫というのは、私が着れる、という意味よね? どこで私の身体にあう水着を見つけてきたのかしら?」
「いやいやなんかすごい誤解されてる気がするけど、それ、葉留佳さんのだから」
「葉留佳の?」
「うん、病院行って、葉留佳さんに了解もらって借りてきたんだ」

 あの子のことだ、「むきーっ! 入院してなければ行くのにー!」とか言ったに違いない。というか。

「あなたに、私とあの子が姉妹だってこと言ったかしら?」
「葉留佳さんから聞いたんだよ。ようやくお姉ちゃんと仲直りできたって言ってたから、お姉ちゃんって誰? って」

 別に、記憶が継承されていたわけではないらしい。少しだけ浮かんだ淡い希望は再度ゴミ箱に捨てておく。

「まあ入手経路はわかったとして。どうするつもりなの? こんな時間に」
「どうするも何も泳ぐつもりだよ? 学校のプールで。今日は月明かりもそんなにないよ。だから大丈夫。見えないよ」
「……あの、もう一度言ってくれる? どうも聞き間違いがありそうだし」
「学校のプールで、泳ごう」

 軽い頭痛が私を襲う。あの世界の経験は、直枝を、ほんの少しだけ彼の敬愛する破天荒な先輩に近付けていたらしい。

「直枝、私風紀委員の長なんだけど」
「だったらそもそもこんな時間に外出てたりしないよね? 1個も10個も同じだよ」
「言うようになったわね……」
「まあまあ。恭介に前聞いたけど、学校のプールって夜間警備とかをしてないから、更衣室やシャワー含めて使い放題なんだって」
「なぜそんなことを知ってるのかしらね、あなたの先輩は」
「……きっと恭介も今からやることと同じことをやったんだよ。だって、恭介だし」

 理由づけが「恭介だし」というのにすごい説得力がある。

「ほら、行こう。二木さん」

 自然と差し出された手。

「……まったく、しかたないわね。直枝は」

 いつぞやでつぶやいたセリフとほとんど同じセリフ。それを口にして、私は手を取った。



 夜のプールは、本当に暗かった。かろうじて直枝の顔や揺れる水面は見えるものの、その奥底は見えず、どれだけ深いのだろうかと不安にさせてくれるほどである。
 妹の水着はというと、これが普通に着れた。ビキニタイプの、あの子が着そうだなあという感じのオレンジ色一色。デザインに関しては、まあ暗いし関係ない。少しだけ窮屈な部分がある気がするが、黙っておこう。
 念入りに準備運動しないとね、などという言葉につられて律儀に屈伸運動などを行ってみる。柔軟体操へと続くにつれて、私の中に少しずつある衝動が浮かび上がってくる。

 早く、泳ぎたい。

 真夜中とはいえ、夏本番間近のころ合い。湿度の高さも相まって、不快指数は相当な数値をたたき出している状態。ひとしきりの運動を終えたところで、

「さて、これでもう大丈夫、って二木さん!?」

 プールサイドから、思いっきり飛び込んでみる。もうさっきから飛び込みたくて仕方なかったのだ。だが、私はとあることを失念していた。
 水が、思ったよりも冷たい。身体が驚いて、うまく動いてくれない。なんだか、底の方に吸い込まれていくようで……
 ざぶんと近くで水の音。それからぐいっと引っ張られて、私の身体が水面に浮かび上がる。

「い、いきなり飛び込んだら溺れちゃうよ!」

 耳元で叫ばれて少しキーンとくるが、まあ仕方ない。どうやらちょっぴり溺れかけてて、直枝に助けてもらった構図、らしい。

「……ごめんなさい」

 なので素直に謝る。

「まったく、いきなり飛び込むからびっくりしたよ……」

 安堵の息が私に降りかかる。まあ半ば抱き掲げられる形なのだから、顔が近いのも当然だ。……私の背中や、腕に、直枝の手の感触。

 ――大丈夫、大丈夫。

 言い聞かせる必要もなく、私の身体は嫌悪感をおぼたリはしなかった。何せ、一度捧げた身だ。今ではノーカウントになるのだろうが、あのときのことを鮮明に覚えているおかげか、直枝に触られても、怖くない。
 でもそれは私側の話であって、いくら暗くても、この距離なら、見えてるだろうから。

「直枝、見えてる、でしょう?」

 だから、念のため確認しておく。ここで終わるんだったら、それはそれでもういい。

「……見える、よ」
「そ……」

 短い確認の返答の後、音が消える。その中で、私はひたすら、直枝に抱きかかえられる形で、水面に揺れていた。直枝は私から離れることなく、ずっと、支え続けている。

「それ以上は何も聞かないのね」

 ずっと続くことが逆に怖くなって、私から聞いてみる。

「うん、なんだか知ってるような気もするし、それに二木さんは二木さんだから」

 返ってきたのはよくわからない回答であり、本来ならあり得ない要素も含んでいた。もしかしたら、まだ希望は持ってていいのかもしれない。さっき私に手を差し出してくれたのだし。

「ほら、いつまでも私に触ってないで、あなたも浮いてみたら? 意外と楽しいわよ」
「なんだか僕が変態見たいに聞こえるなあ……」

 そっと離れていく温もり。
 そのかわり、手の先がつながる。

「あ、ほんとだ、気持ちいいや」
「このまま寝てしまいたくなるわね。時間的にも」
「いやいやいや、さすがに寝たら翌朝大変なことになるからね?」

 軽口を叩きながら、ゆれ続ける。
 目の前に広がるのは、真っ暗な空。光のない世界。ふとすれば吸い込まれていきそうな場所で、私をつなぎ止めるのは温かい手。

「これじゃ泳いだことにならないんじゃない?」
「いいのよ、これでも」

 泳ぐ以上の満足を、つながっている部分から得られているのだから。



 翌朝。少しばかり睡眠時間が少ないのも作用したのか、鼻水が止まらず、体がだるかった。原因は深夜遊泳以外に考えられないのだが、とりあえずなってしまったものは仕方ないと、気合いだけで身支度を整えた。どうにかこうにかで授業を乗り切った放課後。寮長室に現れた直枝が、思いっきり鼻声なのを発見して、お互いに馬鹿にしあったのだが、それはそれ、である。あーちゃん先輩にいろいろ聞かれたりもしたのだが、それもそれ、である。


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