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一次/Pieces

  思えば遠くに来たものだ。
  夜空に輝く半月の光度が、あの場所との距離を示していた。あっちは、薄汚れた都会の中で、こちらは何もない森の中で。
  時折、枝葉の隙間に現れる半月は俺たちを祝福するかのごとく照らし出してくれる。ならば、月光に導かれるこの道は、ウェディングロードといったところか。
  こんなウェディングロードでなかったら、どれだけよかったのだろう。

「っ……!」

  背中に背負う彼女の口から、声にならない悲鳴が漏れ出てくる。とっくの昔に限界を超えているはずなのにここまで来たのだ、つらいなんてものじゃないことはわかっている。
  そして、俺も限界をとっくの昔に超えている。俺と彼女のその限界の間には、限りなく広い溝が開いているけれども。

「も、もうちょっと、もうちょっとだからっ……」

  駆けろ、俺の脚よ。あの場所まで。もっと、速く。



  月明かりが、時折顔を照らし出す。すぐ横に位置する彼女の顔は真っ青で、息をするのもつらそうで。
  やっぱり、間違ったのかもしれない。これは、間違いなのかもしれない。

  だけど、俺は走る。間違っていようと、彼女が望んだのだから。たとえ、俺の身に捌きが降り注ごうとも。

「なか、ないで……」

  ふと、か細い声が聞こえた。横を見ると、彼女がうっすらと目を明けて、俺のほうを見ていた。

「悲しいことだけど、なか、ないで……私は……」

  気づけば、俺の頬には確かに涙が流れていた。走っているうちに、涙腺が緩んでしまったのか。泣かないって、約束したのに。

「わかってる、もう、泣かない」

  宣言して、なおも走る。まだ届かない。まだ、まだ!



  急に、視界が開けた。それは、俺たちが目的の場所に着いたことを教えてくれた。
  森の中にある、小高い開けた丘。その頂上には人二人座れるくらいの平らな岩があって、俺たちは何度もこの岩の上で語り合った。石の向こうには切り立った崖があり、それほどの高さがないとはいえ、森、さらには街までもが一望できた。

  俺たちにとって、かけがえのない大切な場所。

  岩の上に、コートを敷いてから彼女を横たえる。それから、すっかり細った手を握る。

「ほら、着いたよ……」
「う、ん……」

  焦点の定まらない彼女の瞳は、どこを見ているのかすらわからない。悲しくなるので、顔を近づけて視界いっぱいに俺の顔が映るようにする。

「ありが、とう……本当に、無理、言って……いつっ!」

  しゃべるのすら、もうままならない身体……
  医者が匙を投げた、正体不明の病気は、今この瞬間も、彼女の身体を死に至らしめていた。

「お前の頼みを聞けなくてどうする。大体……俺は、お前の、病気すら……」

  泣きたい。
  何で、彼女が、こんな目に。
  俺には、何もできない。
  だけど、泣いちゃ、だめだ、約束したから。

  半分の月が、夜空を支配していた。
  彼女の身体を後ろから支えては、二人であの月を眺める。
  まだ、温かい。
  でも、間違いなく、残された時間は……

「っ!!」
「お、おい?」

  発作。
  これが、彼女を苦しめる、最後になるであろう。
  わかっていた、わかっていたのに……

「くそ、くそ、くそっ!!」

  握り拳を冷たい岩に叩きつける。
  やっぱり、間違っていた。あの場所にいれば、もっと長く一緒にいられたんだ。俺が、連れてこなければ、もっと、もっと……!

「私が、望んだ、ことだから……悲しま、ないで」

  つらそうな瞳が、俺の中までもを見据えていた。

「だけど、だけどさぁ!」
「私が、っ、祐君に、ここに、つれて、きてって!」
「わかってる、だけど連れてこなきゃもっと」
「変わら、ないよ……だから、せめて、ここで」

  ここで、の後に彼女の言葉は続かなかった。

「……おい、未来? 未来、未来!!」

  瞳は、既に閉じられていて、俺を見ていない。
  か細いながらも、確かに存在した声は、既に失われていた。
  後ろから、そっと彼女のやや小ぶりな胸に手を当てても、柔らかさはあるのに空気を取り入れるような膨張がない。

「う、あ……」

  それらの要素は、とある生命の一状態を示していて。

「み、未来……未来……っ! やっぱり、間違ってたんだよ! いくら望んだからってここに来なきゃ、来なければ、いくら最期はって、連れてこなきゃ、もっと、もっと、」

  半分だけ輝く月の明かりが、まるで彼女を空へと奪い去ったようで。

「う、うわぁぁぁぁぁっ!!」

  ひたすら、岩を叩いた。殴りつけた。割れろとばかりに殴り続けた。
  だけど、未来は目を覚ますことがなかった。

  俺は、立ち上がる。
  心の中に後悔とか空虚とか、よくわからない感情が渦巻いていて、導かれるように崖の上に立つ。
  背後に、彼女。もう、息がない、未来。
  前には、半分の月以外に何もない空間。

「俺も、ここにいても、意味ないや、未来が、いないんだから……」

  右足から、前へ。
  まだ左足は残したまま。
  最期に、振り返って、

「そっち、行くよ」

  前を向いて、前に、飛んだ。


 気付けば、見知らぬ家の中に寝かされていた。窓を通して見える景色には薄紫色がかかり、遠くに見える街路樹の明かりが、そして地平線より浮かび上がった満月が、今は夜なのだということを簡潔に示している。
  月光に照らされた室内、その淡い光に乗じて、上半身を起こして周囲を確認する。広さは6畳ほど、家具といえる家具は自身の寝ているベッド、そしてその脇の机くらいで、後は特に何も無い。
  何気なしに起こした際に宙ぶらりんの格好となっていた左腕を脇に下ろすと、何やらさらっとした感触のものに触れる。顔を少し向けるとそこには、頭があった。触れたのはどうやら髪のようだ。肩にかかるまで伸びているその髪はつややかで、柔らかい。
  ――女の子だ。規則正しく肩を上下しながら呼吸を繰り返している。ベッドに腕を置いて顔を鎮める形で寝入っているため表情まで読み取ることは出来ない。ただ、聞こえてくる寝息から安らかな表情をしているだろうということは安易に読み取れる。
  左手で静かに髪を梳かしながら、ここで初めて、どんな状況におかれているのかについて思考を巡らす。

  さて、どうしたものやら。あまりにも普通という名の薄幕――知らない女の子と知らない場所で寝ている事実には驚きを隠せないし、それが標準であるほどプレイボーイではないが――に覆われすぎて、状況というものを今一つ掴めていない。
  自分の状況に目を配せば、何やら怪我をしたらしいことが見て取れる。両腕に擦過傷が見られるうえ、起こした上半身の腹部にはしっかり包帯が巻かれている。人間という生き物は不思議なもので、怪我をしている現実を視覚で認識して初めて痛覚が生まれる。
  腹部に、鈍い痛み。包帯が巻かれてはいるが、滲み出る紅黒い血液が、傷の存在を物語っている。もしかしなくても、かなりの深さではなかろうか。幾ら不思議な生き物とかいったところで、気付かなかったことに少し苦笑。そしてその反動でさらに痛みが増す。

「くっ……」

  思わず苦悶の声を漏らしてしまう。加えて少し楽な姿勢になるよう、身体を動かす。

「……ん……」

  ――しまった、痛みで思考を乱したせいか、自分の脇で眠っている女の子の存在を忘れてしまっていた。どうやら、先程の声と動いたことによる振動が彼女の精神を睡眠の底から引き上げてしまったようだ。

  ゆっくりと頭が上がり、まず虚ろな目で正面を見据え、それから頭が左-つまり俺の顔の方に向けられる。
  視線がかみ合う。女の子の目は一気に開かれる。ただし、睡眠から覚めたのは瞼だけのようだった。

「あ、おはよ」

  これが、第一声。思わず

「おはよう」

と返してしまう。とりあえず真夜中でないことは確認済みだが、ここは無視する。

  彼女は、予想通りかわいらしい子だった。寝起きのために焦点の定まっていない少し大きめの瞳、そしてほっそりとした顎のライン。言うなれば高校の学年のアイドルといったところか。もちろん学校全体の、でないところがミソである。
  話がずれた。
  何はさておき、確認しなければならないことがある。

「ここはどこだ? それで君は?」

  至極一般的であろう、自分の居場所がわからない場所における、知らない人物への質問。
  だが、この一般的質問に対する返答を考えた彼女の表情は、瞬時にさまざまなものに変化した。
  軽い驚愕。激しい憎悪。そして再度、驚愕。俺の顔を見据える彼女の表情は、一瞬にしてこれだけの変化を見せる。
  そして、こう俺に投げつけてくれた。

「この、人殺しっ!」

  と。

  しばしの沈黙が、部屋中を支配した。もしかしたら、世界の何処もかもが、この存在感ある沈黙に多いつぶされているのかもしれないと感じさせるほどだった。沈黙、という状況の中でも、おそらくこれは最悪の部類に入るだろう。
  あれだけの百面相を見せてくれた名前も知らない彼女は、現在強烈な殺意を俺に向けている。当然そんなものをまともに喰らったら、訊きたいこともそれ以前に会話の正常な成立すら望めない。
  現状把握がこんなにも難しいものだったとは。今までそんなことを考えて……

  考えて。

  考、え、……て?

  何だ? 何がひっかかる?
  別に何もおかしくない、特におかしいことなどないじゃないか。
  思考に霞がかかる。
  何もおかしくない、そう信じたいのに、信じさせてくれない。

  思考回路が、火花を散らす。

  ぐるぐるぐるぐる……

  ふと、とある事実に気付く。



  ……ああ、ありえないことだから、思考の範疇にその選択肢を入れてなかった。



  相変わらず冷たさしか感じさせない名前も知らない彼女――いや、今はそうじゃないと確信できるが――に向かって、俺は告げる。

「俺は、誰だ?」

  今度こそ、彼女のそれなりにかわいらしい顔が、強い驚愕で歪む。

「だ、誰って……」

  殺気は霧散。

「いや、割と本気だ。平静を装っているように見えるかもしれないが」
「で、でもまさか、そんな……っ!!」

  肩に痛みが走る。彼女が強く、俺の肩を掴む。

「き、記憶喪失なんてありえないわよっ! 嘘でしょ? ねえ! 思い出してよ! 記憶、何もかも全部なくなってるの!!?」

  何も、答えられない。感じるのは、肩を掴まれた振動による腹部の痛みだけ。

「っ……」
「あ……」

  思わず漏れた苦悶の声に気付き、彼女の手が離れる。

「ご、ごめん……」
「いや……」

  そして、再び、先ほどとは違う種の沈黙の佇む場となる。

  全くもって、現状がわからない。その上、自分が誰なのかすらわからない、記憶喪失。
  目覚めて早々「この、人殺しっ!」と言われていなければこの事態の深刻さを直接に受け、今ごろ前後不覚に陥っていることだろう。ある意味、感謝。

  さて、参った。
  記憶のない自分。腹部には謎の裂傷。誰かわからない少女。何処かわからない室内。

  ああ、こんなにも不確定要素に恵まれている。夜空は、満月が神々しく輝いているというのに。

「どうすれば、私はどうすれば……」

  彼女の声だけが、室内を空しく駆けた。


 カタッと乾いた音を立てて、部屋のドアが開かれる。同時に部屋の空気や雰囲気が廊下に流れ出し、新たなる風が流れ込む。
  ドアを開けた主は、少しだけ影を感じる中年の男性だった。身だしなみはすべて整っているのに、何か引っ張られているものがある、そんな感じ。

「どうやら意識が戻ったようですね」

  俺ではなく、横にいる少女を見て彼は告げた。対して彼女は一度小さく頷いた後、「で、でも……」と俺を一瞬睨んで言葉を濁した。

「どうしました? 傷、痛みます?」
「いや、どうも俺、記憶ないらしいんです。彼女が誰かも、俺が誰かも」

  傷が痛むのは確かだったが、それ以上に重大なことを素直に申告する。名前も知らない彼女が強く歯噛みする様子が見受けられたが、何もわからない俺は何も言えない、疑問しか持ち得ない。

「……なるほど。記憶喪失、ですか……」

  男はしばし黙考。

「頭部に特に損傷は見当たりませんでしたから、おそらく物理的な記憶喪失ではないでしょう」

  物理的な、記憶喪失ではない。となると……

「精神的な……?」
「ええ。私も、遥さんも、貴方が記憶喪失になるための要因に心当たりがありますから」

  彼が視線を投げかけた先には、先ほど俺に対して「人殺しっ!!」と叫んだ時と同じ表情を見せた、遥と呼ばれる少女。8割の怒気と、2割の戸惑いが入り混じっている。
  整理してみる。
  隣にいる、というか寝ていた遥と呼ばれる少女は、俺のことを人殺しと叫び、ドア付近に立つ男性は、俺を精神的な記憶喪失と判断し、俺は全く記憶がなくて。
  ……俺は、誰かを殺して、そのために記憶喪失に……?

  ずきっ。

  胸の奥が悲鳴を上げる。

「っつ、あぁ……!!」

  キズが痛む。何だ、何なんだ……?

「俺は、誰だ。何をしたんだ……」
「知りたい、ですか?」

  一歩、二歩、男が俺に近づいてくる。そのたびに、何かが疼く。

「貴方はそれを忘れたかったために、記憶をなくした。なのに貴方は――」

  そこで、遥が手で制す。

「いいわ、教えてあげるわよ。そして思い出しなさい。貴方は……」





  夜風に当たり続ける。肌を刺すような冷たさが、顔全体を襲う。
  冷静になれる。しかし、冷静になればなるほど……

  記憶が、浸透していく。



「貴方は恋人であり私のお姉ちゃん……橘未来を、外に連れ出した」
「橘、未来……? 外……」

『ねえ、祐君、私を、あの場所に……』
『ば、馬鹿いうなよ! 今の状態であそこに行ったら……』

「原因不明で、危ない状態だったお姉ちゃんを、貴方は……貴方はっ!!」
「う、あ、う……」

『もう、私は、長くないから、せめて、最後くらい……』
『だけど、だけどっ!!』

「わかってたでしょ!? 連れて行ったら間違いなくお姉ちゃんが、お姉ちゃんが死んじゃうって! なのに貴方は――っ!!」



  ――それが彼女の望みだから、俺はあの地に連れて行った――



  満月が放つ光は、俺を温めてはくれない。ただ、冷たく、見放すだけ。

「彼女は……私があの岩のそばに埋葬しました。あのままですと腐敗しますから」
「……ありがとうございます」

  俺は、自分自身が弱いんだと思う。断れない弱さ、場所から逃げ出してしまう弱さ、忘れてしまう弱さ……
  わずかな間とはいえ、何で、忘れてしまったんだ?
  自己防衛? そんなものくそ食らえ。
  遥――既に思い出している。未来の妹で、俺とも仲がよい――の言うとおり、人殺しな上に、忘却しようとしただけなんだから。

「もちろん、警察を呼ばなければならない状態ではあったんですが、私の事情で呼ぶことが出来なかったのできちんと火葬することは出来ませんでした……」
「いえ、あの場所に居続けることが、未来、彼女の望みでしたから」
「そうですか……これは、何かの導きかもしれませんね」

  見上げた空には、わずかばかりの雲と丸い月。あの時は半月だったから、既に一週間以上経過していることがわかる。つい先ほどのことに思えてしまうのが怖い。一週間という、どうしようもない時間が過ぎているのに。

「実は、私の妻もあそこに埋まっているんです」
「え……?」
「貴方たちと同じで、原因不明の病気で、医者が匙を投げましてね……私たちは、現実から逃げようとして、山奥のこんな場所にひっそりと暮らそうとして、すぐに妻は息を引き取ってしまった。そして、月の見える丘に、一人で埋めました。周りから後ろ指さされる中でここに来ましたし、彼女の親族から殺人容疑で告発もされてましてね。だから、下に降りられないんです」
「そう、ですか……」
「毎日2回、あの場所まで行くんですよ。それで見つけました。遥さんのほうは、1日立って森の中で彷徨っているところに出くわしまして。彼女、貴方たちを追いかけてここまで来たそうですよ」

  話を聞くのも上の空になってきた。
  今、隣に未来がいなくて、その最たる原因を作ったのは俺で。

「寒くなってきましたね……私は戻りますが、貴方はどうします?」
「……もうしばらく残ります。夜風に、当たっていたいので」
「そうですか、わかりました。でも身体を壊さないようにしてくださいね。彼女、悲しみますよ?」
「……わかってます」

  周りに誰も居なくなる。
  色々なものを間違えた俺には、ちょうどいい。
  風が、冷たい。


「なんで……連れて行ったの?」

  気づけば、遥が横に居た。先ほどまでの棘がむき出しの雰囲気とは違い、回りをぐるぐる回る風達よりかは柔らかさがある。

「未来が、望んだから」

  先ほどは言えなかったこの台詞を、躊躇うことなく告げる。
  だけどこれは、単なる免罪符でしかない。

「遥は何故追ってきた……? というか、よくここまで来れたな……」
「二人が出て行ったの、見ちゃったから。それですぐタクシーで……」
「なるほど。ばれない様にしたつもりが、遥にはばれてたわけか」

  空を仰ぐ。先ほどよりも、月は高い場所にいた。

「今なら、ちゃんと覚えてるの?」
「……全部、ちゃんと、ね」
「そう……」

  会話が止まる。当然だろう。俺が彼女の姉を殺したも同然なのだから。

  雲に隠れることなく、月は俺たちを照らす。

「……お姉ちゃん、あの時にはもう、終わりにしたかったのかな?」

  そして、再開。ホイッスルの音色は唐突。

「原因不明の病気、医者は手を出せない、なのに延々と延命治療だけ続く……俺だったら、死にたいな」



  つい最近――つまりは、俺が連れ出して、彼女を死なせた日までの2週間ほど――は一日中ベッドで寝ていることを強要された上に、栄養剤やら薬やら送るための多くの管につながれていた。
  時折意識がなくなることもあったために、死なせない治療法としては正しいのかもしれないが……

「あれじゃあ、生きてるのかすらわからなくなる」
「だったら、自分が誰でどう状況かわかるうちに、死んだほうがいいのかもしれないね……」
「だけど、だからって、まだ何かしらの方法が」
「自分だったら死にたいのに、お姉ちゃんだと死んじゃいけないの……?」
「……っ!」
「きっと、祐介さんも、」

  先程まで貴方だった呼称が、俺の名前に変わった。あの日以前の、正しい関係。

「お姉ちゃんが終わらせたいことに無意識のうちに気づいていたから、これ以上苦しんでほしくなかったから、連れていった、違いますか?」

  ……この子は、いつだって鋭いモノを持っている。先程の殺気のような鋭さもあれば、このように人の深層心理に食い込める鋭さも備えている。

「だったら……例え私がどれだけ祐介さんを恨もうとも、祐介さん自身は後悔しなくてもいいんじゃないですか? 崖から自殺しようとしたり、記憶を忘れようとしたり、そんなことする必要はないんじゃないですか? むしろ、しっかり受け止めなきゃ、お姉ちゃんがかわいそうです。死なせてくれと暗に言って実際そうなって、でも本人は後悔して、それじゃあ何のために願ったのかわからなくなりますよ」



――悲しいことだけど、泣かないで……私は――
――ありがとう、本当に、無理、言って……――
――私が望んだことだから……悲しまないで――
――私が祐君に、ここにつれて、きてって!――
――変わらないよ……だからせめて、ここで――



「……そうかもしれない」
「だから……死のうとしたり、しないでください。恨む相手、いなくなっちゃうじゃないですか」

  ふと遥の顔を見ると、泣きたいけど泣けない、怒りたいけど怒れない、中途半端な表情になっていた。

「わかったよ、死のうとしないし、忘れもしない。好きなだけ、恨んでくれ」
「そうですか……では、好きなだけ恨みます。恨んでも、いいんですよね?」
「それなりのことを、したからね」

  もう一度、空を見上げる。先程よりかは動いてない月が、そっと俺たちを見つめていた。

「それより……なんで、さっきまでと感じが違うの?」

  遥が俺の横に現れたときからずっと気になっていたことを素直に聞く。

「それは……北見さん、あの人の名前だけど、から少し話を聞いたから……」
「話?」
「北見さんとその奥さんの話。祐介さんとお姉ちゃんの場合とほとんど同じだったんだって」
「それはさっき言ってたな……」
「ただ違うのが、北見さんの場合、北見さん自身が、その……諦めたんだって」
「諦めた?」
「北見さん、お医者さんなんだって。で、もう無理だと判断したのも……」
「……そうか。それは……」
「うん、つらくて、でも二人で決めて、ここに隠れたんだって。それからは……」

  ひたすらに明るい月が、万遍なく地表を照らす。太陽の光よりも穏やかなそれが、夜空にはよくあう。

「……俺は、忘れない。逃げない。それが、俺たちで選んだ、道だから……」
「それは、いいことですね。私も、気づいていながら、今まで逃げ続けてきました」

  唐突に、後ろから声がかかる。北見さんだった。


「結局、私たちも逃げてるといえば逃げてるんです。逃れられない死、大きすぎる存在に対して、背中を向けながら如何によく死ねるかとしか考えていない、そして、死んでしまった後、何も出来ないまま過ごす……それじゃあ、いけないんですよ」

  ドアを片手で閉めながら、一歩、また一歩、こちらへと近づいてくる。

「確かに、あの時の医療技術では、私は妻を救うことが不可能だった。だからといって、以後全てを投げ打ってこの山中で隠遁生活を送るのは、逃げているだけじゃないか、最近そう思っていたんですよ」
「北見、さん……?」

   彼の表情には、月光に浮かびだされるように強さが表れていた。

「その一歩を踏み出したのが、貴方たちへの治療でした。高さがさほどなかったとはいえ、祐介さんは腹部にそれなりの裂傷を負っていた。無論、放置すれば失血死するほどの、ね」
「……ありがとうございます」
「いえ、私はそれまで、ただ悲観に打ちのめされて、医師たる立場を忘れていましたからね。失礼ではありますが、私に医療行為に戻すきっかけを与えてくだったのは貴方たちです。私もお礼を言わなくてはなりません。ありがとうございます」

  そして一礼。対して俺たちも深いお辞儀で答える。
  顔を上げた彼は、再度ドアのほうへ戻り始める。

「……そして、私も、一つ克服することが出来ました。私は過去に、手を出せずに妻を死なせてしまった。ならばそれを乗り越えるには? ……医者が匙を投げたものを、この手で救うこと、ですよ」

  鈍く光るドアノブに、手がかかる。

「貴方たちは、私は幸運に恵まれました。一つは発見の早さです。もう少し発見が遅かったら、確かに手遅れでした。もしかしたら、妻が導いてくれたのかもしれません。そしてもう一つは……この家でも手を出せるレベルの未知の領域、だったということです」

  蝶番が、軋んだ音を立てる。
  扉が、開かれる……

『っ!!?』

  月は、あの時よりも半分だけ大きいのに、それ以上の光をくれた。

「“彼女”を担当した医者は、思いつかなかったんでしょうね。呼吸時のみに開くやっかいな気道孔の存在を、ね」

「未来っ!」
「お姉ちゃんっ!」

「最も、意識が戻ったのは今日でしたが……示し合わせたように二人とも目が覚めるとは、仲がいいですね」

「祐君! 遥っ!」

  もう、何も言えない。
  ただ、未来が生きている、それだけが全てで。

「まだ、貴方たちに、そして私にも、未来はありそうですね」

  俺たちは、何かを見つけた。



――悲しいことだけど、泣かないで……私は――
――ありがとう、本当に、無理、言って……――
――私が望んだことだから……悲しまないで――
――私が祐君に、ここにつれて、きてって!――
――変わらないよ……だからせめて、ここで――



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