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一次/手向けのコトノハを胸に

  嫌なことって、色々あると思う。
  レストランに行ったらまずいパスタが出てきた時とか、重いからって折り畳み傘を持って来なかった日に限ってにわか雨に出くわした時とか、夜中布団に包まりながら聞いていたお気に入りのラジオ番組が終わってしまった時とか。数え上げたらきりがない。誰だって、嫌だと思うことを山のように抱えて生きている。
  嫌なことの基準は人それぞれ。あたしにとっては些細なことでもお隣の山中さんにしては嫌なことだったとか、その逆とか、人によって違う線を引いているから万人共通に通じる“嫌じゃないこと”を探すのは実に難しい。そして、同じ嫌なことであってもその嫌さ加減は人によって違う。あたしは満員電車に乗るのはそれなりにご遠慮願いたい、といったところだが、チカちゃんは絶対ヤダ、あれに乗るくらいなら講義サボる、と公言して憚らない。ただ単にサボりの口実作ってるだけかもしれないけど。だとしたら、昔のハワイの大王もびっくりだろう。
  話がそれた。ようするにあたしは、嫌なことは山ほどあるけど人によって嫌なことの基準は違うし、人と嫌なことが被ったとしても、どれほど嫌と感じるかは違うと言いたいのだ。

  だけど。
  あたしは声高に(心の中でこっそりと)叫びたい。

  ――コレばっかりは誰だって嫌だっての!――

  はあ、と溜息一つ。溜息を一つ吐く度に人間寿命が一年縮まるというから、これであたしは一年分損したことになる。もっとも、この間からの通算溜息回数は軽く三桁をぶっちぎってるので、長くても百二十年程度の寿命な人間であるあたしは今すぐにでもこの世にサヨナラしなければならないことになる。
  いっそその方がいいんじゃないか、と思っては頭を振って思考を追い出す。残念ながらあたしにはまだやらなきゃいけないことがある。嫌なことの元凶である、掌で握り締めたモノを少しだけ見つめてから、思考の迷宮化と共に遅くなっていた歩みを速める。
  目的地である駅のビルはもう見えている。時計に目をやると、乗る予定の電車の発車時刻まで十分少々しかなかった。買ってある特急券が無駄になるのはそれなりに嫌――コレよりは嫌じゃないけど――なので、小走り気味に駅を目指す。

  今日中に済ませて、明日からは嫌なことを忘れることにしよう。
  そう、しよう。
  幸いなことに今日は晴れ。気持ちよくなるくらいにスカッと晴れた青空が、大通りに立ち並ぶビルの間から見えていた。青い空を見ていると、少しくらいは気分もよくなる。嫌な気分を払拭したりは出来ないけど、水色が与えてくれる癒し効果は侮れない。なんとなくいい感じ、と思えるのが重要なんだろう。気持ちの問題だし。

  明日も晴れてくれますように。
  あたしの祈りは届くだろうか?


  ザァーッ。ザァーッ。深夜の砂嵐テレビのアレような音が、途切れ途切れに聞こえてくる。よくよく考えたら、こちらも砂嵐のようなものかと納得。寄せては返す波に揉まれる砂々が奏でる深夜のメロディーライン……間違えた、これはテレビの音じゃない。
  今あたしの目の前には、広大な太平洋の大海原が広がっていた。新宿から電車を乗り継い
で二時間と少し。ビル街からたったそれだけの時間でだだっ広い砂浜と大海に出くわすのだから、日本は狭くて面白い。でも街中の息苦しさは勘弁してほしいのが実際のところだったりもする。
  海には多数のサーファーが繰り出していた。海水浴シーズンは過ぎ去ったというのにご苦労なことだ。車に乗ってわざわざ高速使ってまで波乗りするくらいなら、どこかの寂れ気味の商店街とかにお金を落としてあげてほしい。その方がよっぽど世の為になるんじゃないだろうか。海の家やらサーファーショップやらの為にはならないだろうけど。

  そんなくだらないことを考えながら、人の居なさそうな場所を探してあたしは歩いていた。どうでもいい思考は一時的に嫌なことを忘れさせてくれるが、終わった後じわりじわりと時間を掛けて倍返ししてくるのが困りモノ。精神的なものに直接触れるからある意味クスリより性質が悪い。やったことないから、この感想が正しいかは証明できないし、証明するためにやる気もないけど。まあ、今さえ良ければいい。嫌なコレをやりきってしまえば、次の日からは悩むこともない。

  ふう、とまた一年寿命を縮めてから、見つけた手ごろな場所に座り込む。といってもお尻をつけるとジーンズが汚れるのでしゃがむだけ。目線を低くして、一定のリズムを作り出す波の先端を見続ける。浜に寄せてきた波は、徐々に低くなりながらもかなり内陸側まで浸食しては沖へと戻っていく。いつまでも、その繰り返し。波形自体は一定ではなく、崩れているものもあれば綺麗に走ってくるものもいて、見てても飽きない。

  あと十分だけ見ていよう。それから、やろう。
  消極的な踏ん切りをつけてから、嫌なことの元凶である、掌で握り締めたモノを少しだけ見つめ、口付けをした。鉄製のソレは、当然無機質、というか鉄の味しかしなかった。もう少し色気のあるデザインを選んだらよかったのに、なんてことを思ったりもしたけど、意味ないから止めておいた。

  波は、寄せては帰り、寄せては帰り、の繰り返しを延々とあたしの目の前で続けている。時計を見たら、さっきから八分ちょっとが経過している。
  十分は経ってないけど、思い立ったら吉日、という言葉もあるくらいだからいいと思う。よっこらしょ、と溜息ついた分だけ年取ったフリして立ち上がる。
  目の前は海。どこまでも続く、海。
  あたしは手にしたものを、大きく振りかぶって――


『小学校の頃さ、友達と遊んでから帰るとき、なんていってた?』

  あたしが林檎の皮を(苦労しながら)向いているとき、彼は窓の向こうに広がる味気ないビル群を眺めながら尋ねてきた。手先がぶきっちょなあたしは、真剣にフルーツナイフの刃を見るので精一杯だった。

『んー、覚えてないよー』
『……返事、上の空なんだけど』

  少し非難めいた視線を感じたので仕方なく林檎を皿の上に置くと、彼はナイフともども手に取り、ヒトが苦労して半分までむいた皮の残りを、するするとむいていく。

『……いつまでたっても、器用じゃないなあ』
『うー、うるさい……』

  上半分はでこぼこ、下半分は綺麗な林檎が、八等分されて皿の上に盛り付けられる。

『ほら、食え』
『……立場が逆だと思うんだけど』
『気にするな。で、さっきのやつ。本当に覚えてない?』

  あたしを覗き込む瞳が真剣そのものだったので、うーんと唸りながら思い出す。

『またねー、とか、また明日ー、とかかな』
『ほほう、やっぱり同じか。うんうん』

  何を満足したのかわからないけど、彼はうんうんと大げさに頷いた。

『だよね、やっぱりどこでもまた明日って言うよね』
『それがどうかしたの?』

  聞き返すと、目を輝かせて彼は語りだす。こういうときの彼の姿は眩しいけど、少し鬱陶しくもある。

『また明日、って、魔法の言葉なんだよ』
『……はいぃ?』
『今、こいつ頭悪いんじゃない、と思ったでしょ』
『うん』
『……正直なのはいいことだけど、グサッと来るなあ』
『で、何で魔法の言葉なのよ。よくある挨拶じゃない』
『刺さったところは無視するのね……まあいいけど。
  また明日、ってことは、つまりは明日も会うわけだろ。明日また遊ぼうね、って約束の意味が含まれてる。じゃあさ、明日ってのはいつだい?』
『そりゃあ、今日があって、その次の日が明日でしょ』
『そ、今日の次の日も明日。だけど、もう一つ意味がある。ことわざで、“明日はわが身”っていうのがあるだろ。このことわざで使われる明日は、今日の次の日の明日だろうか』
『……違うの?』
『違う。この明日は、近い将来を意味する明日だよ。だから、また明日っていう言葉は、明日会おうね、って意味だけじゃなくて、そのうち会おうね、って意味も含まれてるんだよ』
『へぇ……』
『俺がガキの頃、よく転校していった子がいてさ、そいつらには皆で必ずまた明日ーって叫んでたんだよ。ありゃ、またいつか会おうぜー、それまでは元気でいろよってことだったんだな、とこの間気付いてさ。一人感心してたんだよ』
『それ、たまたまだと思うけどなぁ』
『いいじゃん、こっちの方が夢があるし。ついで言うと、ありゃ自分の方を納得させるためでもあるけどな』

  そういって、彼は子供っぽい笑いを浮かべる。やれやれ、と思いながらも、あたしは林檎を一切れ口にした。



  彼と一緒に林檎を食べたのは、その日が最後だった。
  一週間後にあっさり体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。
  いつか死んでしまうのはわかっていたので、葬式で遺影に面と向かったときも泣きはしなかった。だけど覚悟してたって削られるものは当然あって、しばらくは呆然としてた。何も手がつかず、四六時中、ベッドの上でぼけっとしてた。
  大事な人が亡くなるって、本当に大きなことなんだな、と他人事のように実感もした。

  そんなあたしの元に、一つの箱が届けられた。
  中身は、手紙と鉄で出来た安物のリング。あたしが今も左手中指にしてるものとおそろいのリング。
  差出人は当然、彼だった。無論、親族が代理したのだろうけど。
  リングはさておき、手紙を読む。ちょっぴり癖のある、右肩あがりの文字列は間違いなく彼のものだった。読んでる途中、軽く泣きそうになって、だけど泣けなくて、揺れてるようで揺れてないようなよくわからない自分の感情に振り回されながら、なけなしの頭脳で書いてあることを理解した。

  最後に書いてある言葉までたどり着いたとき、ようやくあたしは涙を流した。
  何が、『また、明日』だか……


  ――ポチャン、という味気ない音すら、波の音にかき消されたのかあたしの耳に届くことはなかった。別に期待していたわけではないけど、音が聞こえることによって一つの区切りがつくんじゃないか程度には思ってたので、あたしはどこで切り替えたらいいのかわからなくなった。

  彼からの手紙の中身は、早く自分のことを忘れるように、そのためにあたしと彼の指輪を海に投げ捨ててくれ、というものだった。

『君の性格上、どーせいつまでも引きずるんだろうから、さっぱりと気持ちを切り替えてくれ。難しいだろうけど、まだ先があるんだから、こんなところで立ち止まらないように』

  実に簡単に言ってくれる。簡単に言ったくれた以上、妙な反骨精神で嫌々ながらに指輪を大海原に投げ込んでしまった。
  ……やっぱり、嫌なコトをすることで、何かしら変わるんじゃないかという期待はあったと思う。だけど、何も変わらない。嫌なコトは、嫌なコトで上塗りできず、単に重なってしまうだけ。
  大事な指輪を捨てた喪失感が、先ほど躊躇わせた砂浜への座り込みを促す。波が来ないぎりぎりのところで、ストンと腰を落として脚を投げ出し、あたしは空を見上げた。憎いくらいに真っ青な空は、残念なことにあたしの気分を晴らしてはくれない。そのまま身体も投げ出してみる。焼けた砂が、代わりの温もりを与えてくれる。



  気付けば、あたしは眠っていたようだった。
  先ほどまでと日の高さも違うし、波が届く位置もかなり上がってきている。

「……ん?」

  身体を起こして砂を払っていると、ふと靴の先に光るものが二つ並んでいるのが見えた。取り上げてみると、二つとも指輪だった。しかもあたしが投げ込んだもの。
  どうやら、波さんたちは指輪を沖へ流さず、浜辺に打ち上げてくれたらしい。まだ思い出をとっておけということか、あるいは……

  不意に、捨てなくてもよかったんじゃないかという気になってきた。捨てたところで気持ちが切り替わることはなかったんだから、持ってようが持ってなかろうが何も変わらないんじゃないか……
  何だ、指輪を捨てることは間違いだったんだ、という結論にたどり着く。今まで彼の言うことを素直に聞いてきた罰だろうか。

  途端に、馬鹿らしくなる。わざわざここまで来て、指輪を捨てようとして失敗して、それが実は間違いで……あたしは何のためにここまで来たんだろうか。

『また明日、って、魔法の言葉なんだよ』

  何故だか、ほとんど関係ないはずの彼の言葉が浮かんできた。せいぜい、手紙の最後に書いてあって強引にあたしを泣かせてくれた程度の言葉なのに。

『また明日っていう言葉は、明日会おうね、って意味だけじゃなくて、そのうち会おうね、って意味も含まれてる』
『ありゃ、またいつか会おうぜー、それまでは元気でいろよってことだったんだな、とこの間気付いてさ』

  ぽんぽんとどこからともなく再生されていく。ちょっとした会話だったのに、あたしの中には深く刻まれているらしい、ときてはたと気付く。

  ――ああそうか、そういう意味だったんだ、手紙の最後は。

  なんだなんだ、ようやくわかった。そういうことね。わかりにくいったらありゃしない。
  色んなもやもやとか鬱々としていたものが、少しずつ晴れていく。ここまで来てわかったのは馬鹿みたいだけど、来た意味が出来た。指輪を捨てようとしたのも間違いじゃなかった。結果は戻ってきちゃったけど。結果オーライ。
  砂を落として、両手の中指にはめる。右手のほうは少しサイズが合わず緩かったけど、落とすことはないだろう。

「やっぱり、指輪は持っておくよ。大切なものだから。その代わり、この言葉を置いていくね」

  指先で、少し濡れた砂浜に文字を書く。たった四文字だけど、大事な言葉。
  満潮のときにはきっと沈んでしまい、文字はかき消されるだろうけど、それでいい。
  直ぐに書き終わり、あたしは海に向かって立ち直る。
  大きく息を吸って、吐いて、吸って。サーファーはまだ居るけど気にしない。

  お腹の底から出せる限りであたしは叫んだ。



  ――また、明日/いつか――