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一次/LOVED A RIDDLE

 たまに思うのが、あたしはどうしてあたしなんだろう、というエセ哲学的な難題の解答についてだったりする。別に、たまにいる哲学者気取りの馬鹿と同じようになりたくはない。アレは単なるエゴ。あたしのは単なる好奇心の追求。似て非なるものだと信じて疑わないことにしておく。

 あたしは、どうしてあたしなんだろう?今の自分に不満があるとかコンプレックスを抱えているとか、そういう問題じゃあない。さばさばした性格のせいか、ちょっぴり発育の遅れている身体とか多少きつめに人に接してしまうこととかも、まあそれはそれでと思っている。……後者は改善しなきゃならない点だけど。
 そうではなく、価値としてのあたしが、自分ではわからないのだ。「我思う、故に我あり」みたいな自我の確定なんかじゃなく、あたしはあたし自身でにどういう価値を所有してあたしたる者になるのか……自分でも訳が分からない。なのに、この漠然とした疑問が解決されないから、散々悩むことになる。お風呂場で鼻歌を歌ってるときや、トイレで色々なものと戦っているとき(女の子があらゆる排泄行動を行なう訳が無いなんて考える馬鹿がいるのが不思議だ)、などといったちょっとした時間でしか悩まないけど。それ以外の時間は生きるのに忙しく、考えることが出来ないからだと言い訳しておく。普段から考えると頭が痛くなるから、という理由は考えない。

 話がそれまくっている。
 ともかく、あたしはどうしてあたしなんだろう、あたしをあたし足らしめている価値はなんなのだろう。
 考えだして早4年。中学や高校の頃は、この手のことで悩むのが馬鹿みたい、なんて思っていた。中高生なんて案外単純で、極端に悩む――所謂アイデンティティの確立というやつだ――か、まったく気にしないのどちらかだった。私は後者に位置していて、前者のような奴を時折軽く詰ったりもしていた。
 あの頃の自分にドス突き付けて考え直させたら、今頃悩まないでよかったかもしれない。若いころは単純で困る。まだ20すぎだけど。単純な思考回路は楽に生きることが出来るから、経験の足りないうちはその方向に逃げたくなるものだけど、後になって絶対に後悔する。全ての物事がきっぱり線引出来るわけない。

 あの頃は悩んだりしなかった。悩まない代わりに悩んでる人間をいじる事に没頭していた。そのツケがコレなら、甘んじて受けるしかない。

『まったく、いつも人を小馬鹿にしてるからだよ』
『馬鹿にしてるつもりはないけど、くだならい事悩むのは馬鹿みたいじゃない』
『それを小馬鹿にしてるっていうんだけどなあ』
『うるさい、祐介はいちいち挙げ足とらない!』

 その単純だった頃の会話が不意に脳裏で再生される。振り返ってみると、やはり単純で、矛盾だらけのあたししかいない。そんなものかと思ってしまえばそれまでだし、やはり違うと思ってしまっても終着点、過去は振り替えることが出来ても戻り先とすることは出来ないからだ。

 そういえば、今の会話のおかげで思い出したけど、あいつは今頃どうしてるのだろう?
いつだって何処か抜けたような表情をしてはそれなりに整った顔立ちをダメにして、おまけに一枚薄くてしなやかな幕を挟んでいるから奥まで踏み込もうとしてもあっさりと受け流されてしまう。それなりな友人評は「顔立ちは整ってるけど……」、初対面の人が言うには「柔和でとっつきやすい」、付き合いが2年くらいあったあたしからすれば「掴みようのない馬鹿」と、三者三様の評価が与えられる奴だった。何の因果か、日本の高校時代――2年修了と共に諸事情で留学したために、2年間となるが――において、2回とも同じクラスとなり、一番中の良い異性の友人となった。
 不意に、あの頃の記憶が蘇り始める。まだ悩むことを知らず、今よりも更に直情的に生きてはいたけど、充実もしていた。よく分からない奴だったとはいえ、成績的にも手頃なライバルとなっていたし、いい友人を持てたのだから当然といえば当然である。

 たまに辿り着いてしまうのが、あいつがそばにいない状況となったから、価値だとか自身の存在根拠があやふやになってしまったのではないか、ということである。認めたくはないが、悩みだした時期はあたしが留学してからと一致している。もっとも、不慣れな海外生活に、明治の文豪が自分を崩していったのと同様の出来事だった、ともいえるが、性格と持ち前の語学力のおかげか、環境や人物関係の変化にもあっさり慣れてしまったものだからあまり影響があるとは言えない。
 なら、原因は……やっぱりあいつかもしれない。

 別に恋仲だったわけじゃあない。仲は良かったが、あくまで友人としての仲であり、恋人同士のそれではない。勘違いした周囲に笑っては違うと互いに言っていた。……今だから言えるが、あたしはあいつに小さな恋心を抱いてはいた。そして、自意識過剰なんかではなく、あいつ自身もあたしに対し同じような感情を持っていたのではないかと思う。
 なんやかんやで、思考回路に違いはあれどあたしたちは似たもの同士、言うなれば表裏一体の存在だった。だから、奥深くまではわからないけども漠然とした意識なら互いに読み取り合っていた。
 となれば、互いが互いに淡い恋心を抱いていたことを知っていた、ということになる。半分くらいの割合であたしたちは相思相愛だった。だけど付き合ったりとか性的な関係を持つことはしなかった。臆病だった、と言われればそれまでだしそれが原因の一つであったことは否定できない。だけど、お互いに『付き合って時間を縛られるより、友人の関係で自由にいたい』などと考えていたことが最たる理由だったとあたしは思っている。縛られる、などと言えばまともな理由に聞こえるがら結局は付き合うことにある種の劣等感を覚えていたのだ。まるで小中学生みたいだが、当時は本当にそう考えていた。
 まあ簡潔にまとめれば、あたしたちは結局そのままで別れた。そのことが、あたしを悩ませているのではないか……?
 あたしの性格から、ありえないといえばありえないが一概に言い切ることもできない微妙な部分である。何故なら、あたしは昔からこの手の感情を解析するのが苦手だったからだ。違うと思っていても、実は真実だった――なんてことが多々あるから困る。

 結局、悩んだり過去をのぞいたりしても答えは出ない。全てが微妙なバランスの上に成り立つせいか、壊さないように壊さないように触れることしかできず、肝心の中身を引きずりだすことに恐怖してしまうのだ。
だから、散々悩んだ挙げ句のあたしの仮解答はいつだって、

「まあいっか」

となる。やっぱり悩むことは馬鹿らしいかもしれない。


 大学の授業はいつだって退屈だ。年食った教授がただ持論を垂れ流すだけで、あたしたちが学ぶべきことが少ない事のほうが多い。ただ話を聞いてはノートに落としていく。だから余計なことを悩む暇が出来てしまう。

「はぁ……」

 今日このマクロ経済におけるうんたらかんたらの講義でも同様で、悩んではいつもの到着点に辿り着き、無駄だったとため息をつく。それを目ざとく(というか耳ざとく、か)聞き付けてた人物がいた。

「あらマイ、憂欝そうなため息ついちゃって。私を誘ってる?」
「ない。あんたと違ってそれはないから」
「あら残念。悩み事がいつでも慰めてあげるのに」
「……どうせ口は使っても言葉じゃないんでしょ」
「正解。ささ、私の部屋でめくるめく官能のセカイを体験しあいましょ。そしたら悩み事なんて忘れるわよ」
「自分の趣味に人を巻き込むなっ!」
「ひどい……弱気な私の精一杯の告白だったのに……およよ」
「何が弱気よ、いきなり性交に突っ走ってるじゃない……第一、およよってなによ、およよって」
「え、これってマイの国で相手を落とす時の常套句じゃなかったの?」
「……どこでそんな知識仕入れてくるのよ……しかも間違いだらけのを」
「ちっちっ、今の世の中インターネットという便利なモノがあるのよ」
「あーはいはい、わかったわかった」
「というわけでベッドに……」
「いかないわよっ!」

 ……わけの分からないやりとりをどうにか打ち切る。ため息に気付いてやって来たのは友人であるミリーだった。大学に入学して以来の付き合いではあるが、なんというか、ざっくばらんに言うなら同性愛者であり、何かにつけてあたしを口説こうとしてくる。どこまで本気なのかはわからないが、本人が「冗談よ、冗談」と言っても冗談だとは思えない時が多々あるのが困りモノだった。友人としては飽きない奴なんだけど、彼女にとっては残念なことにあたしには女を愛するなんて趣味は持ち合わせていない。

「冗談はおいといて、ため息ばかりついてると早くから老いるわよ?」
「……それはわかってる。でも悩み事があればため息だってつきたくなるよ」
「……大体、そこまで悩んでる事って何よ?」
「……それは、言えない……」

 まさか『自分はどうして自分なのか』なんかに悩んでるなんて言えないし、原因がもしかしたら恋だの愛だの甘ったるいものだと知ったら何をされるかわからない。

「あー!わかった!恋の悩みでしょ!日本に忘れられない人がいて、彼を想っては夜な夜な自分の指で慰める毎日……マイ、不憫すぎて可愛いわよ」
「いい加減エロいオッサン思考をやめなさいっ!」
「いいのよ、マイ、恋に焦がれ恋に泣く……それも青春よ!だけどたまには忘れないと。というわけで……」
「何がどう『というわけで』指をわきわき動かすことになるわけよ!なんやかんやであんたは楽しみたいだけでしょうが!」
「せいかーい。よくわかってるわねーだから愛してる」
「あーはいはい、適度に愛してるから、とりあえず黙りなさい」

 あまりにもピンポイントにつかれて焦るも、どうにか表情に出るのだけは堪えることが出来た。妙に鋭いことが多いのが困る。本人曰く「同性愛者ってやっぱり迫害されかねないから過敏になるのよ」とか。根っからのレズビアンなのはかまわないが、それをあたしに向けないでほしかった。

「あーそうだ、悩んでるとこ悪いけど、教授からの連絡がマイにあったわよ」
「……ルゴール教授?ゼミ関係?」
「正解。何でも日本からの超短期留学生が来るから、同郷のマイに期間中の世話を頼みたいって」
「へえ、珍しいうえに奇妙ね。短期の留学プログラムなんてやってたっけ」
「何でも教授並びに教授の日本での知り合いの諸事情、らしいわよ。まさにミステリーね」
「絶対ミステリーじゃないから」

 あーだこーだ言いながら詳しい話や日程を聞いていく。その留学生は男で、あたしと同じ歳とのことで、さっきの考え事もあり否応無しに祐介のことを思い浮べる自分がいて、やはり恋煩いの一種なのかもと隠れて落胆した。


 気付けば留学生を受け入れる当日数分前だったりする。もともと2日しか間がないのもあるが、それ以上にいつもの悩みに悩まされることが多かったから、というのもある。記憶から留学生やら祐介やら不穏な単語を削除しようとしても、エラーを起こして削除してくれない。まったく、あたしの頭にはWindowsでも入っているのだろうか。
 ばたばたしたまま当日。あたしは世話をするという大役を受け持ってはいるが、あとで教授から聞いた話ではそこまで気を遣わなくてもいいとのことであるので、言われたとおり何の気も遣っていない。まあ留学しようというくらいだから、本人だって色々準備しているだろうし、超短期(聞けば一週間らしい)なのだから余計に気を遣う必要がなさそうだったと自己弁護しておく。

「あー、格好いい人だったら嫌だなあ」
「何でよ、ミリー……」
「だってマイが日本に置いてきた人を思い出したりして、そいつと付き合ったりしたら嫌じゃない?」
「聞き返されても困るし……」
「私のマイを取られるわけにはいかないわっ!」
「あたしはあんたの所有物じゃないから」
「相変わらずつれないなあ」
「つられるわけないでしょ!」

 留学生と初対面、というゼミの開始前でもミリーとこんな会話をしているのは何故だろう、と激しく疑問符を浮かべたところでゼミ室前の扉が開かれる。
 入ってきたのはルゴール教授。あたしたちのゼミ担当で、不況のメカニズムなんかを解析している。今扱っているのは日本のバブル崩壊だから、その関係が日本人学生招待の一員かもしれない。

「あー、まあ前もって話は伝わってると思うが、本日より一名、一週間ほど仲間が加わる。紹介しよう……入ってきてくれ」

 教授に呼ばれ、一人の東洋人男性が入ってくる。何処か抜けたような表情をしてはそれなりに整った顔立ちをダメにして、おまけに一枚薄くてしなやかな幕を挟んでいるから奥まで踏み込もうとしてもあっさりと受け流されてしまうような……まるで祐介みたいな、って。

「初めまして、谷河祐介といいます。短い間ですが、どうぞよろしく」

 流暢な、というよりもネイティブ並の英語で(あたしより上手い気もする)現われた日本人――というか高校時代の親友が挨拶をした。

 さて、これはどういうことなんだろうとあたしが下向いて必死で考えているうちに、経緯だのゼミ生からの自己紹介だのが進められていく。
 教授の都合であたしの二人前の番の所で紹介は打ち切られ、ほっとすべきか切っ掛けを失ってしまったと考えるべきかとまた悩む。あーもう、あいつのせいで悩みっぱなしだ。

「さて、残り時間で手短に我々の講義のこれまでをまとめてみよう。谷河君は適当な席に着いてくれ」

 促されたあいつは一番前の席に座った。よくある話みたく、何故だかあたしの席の横に腰掛ける、なんてことはなかった。というか、あいつはあたしに気付いていないのだろうか?期待してるとかそんなわけじゃあないけど、気付かれてたらそれはそれで嫌なのに気付かれてないのはもっと嫌だ。
 ……なんだ、このもどかしい乙女心は。とりあえずゴミ箱にポイ。

 教授の口から東証株価だの外資だのがこぼれてくるも、全部右から左。まともな思考回路が作れない。
 大体、なんであいつがこんな短期留学をする必要があるのかがわからない。わからないことがまた増えて困る。

 ……とかやってるうちにゼミの時間が終わる。本当にどうしたんだ、あたしは。

 教授が出ていってから真っ先にミリーがやってきた。

「ほらマイ、ぼけっとしてないで行くわよ」
「……何処によ?」
「……マジで色ボケしてるわけ?かなり妬けてくるんだけど」
「妬かなくていいからそんな気持ちは焼き捨てなさい。で、何処に?」

 はぁ、とこれ見よがしにため息を吐かれる。どうやらあたしは本格的にやばいらしい。

「例の日本人よ。マイは世話役でしょ」
「……あー」

 すっかり忘れていた。というかあたしが祐介の世話をしろというのか。かなり、厳しい気がする。間違っている気もする。
 強制的に顔をあわせなきゃならないというのは苦痛半分だったが、これ以上ぐだぐだやると妙な詮索をされかねないので、諦めて席を立ち、ミリーと共に向かう。

 あいつは、お約束どおり質問攻めにあっていた。留学期間の長いあたしとは違い、祐介は生の日本人である。友人たちが触れたくなるのはよくわかる。ひとしきり質問が終わったところで、痺れを切らしたミリーが腕を引っ張って連れてくる。

「私はミリー、さっき紹介したから略。で、こっちが滞在中の君の世話をするマイハニー、マイよ」

 とりあえず、一発ブロンド頭を叩いておいた。
 余計な紹介であたしはきっかけを逸してしまった。それは向こうも同じだったようで、少し困惑した表情を浮かべる。
 少し気まずい空気が流れたとこで、先に口を開いたのはあいつ。出てきた言語は英語。

「はじめまして、マイ。一週間よろしく」

 ……気付いて、ない?非常に腹が立つ。むかつく。

「こちらこそはじめまして、ユースケ」

 なので語気に怒りが含まれてしまっても、きっと許される、と思う。そんなあたしの態度にミリーはきょとんとするのは当然として、予想に反して祐介はやれやれといった表情をわずかに出す。きっとこれは、あたしにしかわからない些細な揺れ。

「舞、さすがに知り合いっていうのは出来すぎだから、仕方なくはじめましてって言ったんだ。だから怒らないでくれ」

 今度は日本語で小さく伝えてきた。ということは、あたしには気付いていたらしい。相変わらず気のきく人間である。しかし、今の言葉に違和感を感じたのはさすがに気のせいか。
 黙りこくっても仕方ないので、わかったと口パクしてから英語で事務的な内容を話す。

 通り一辺のことを話し終えると、ミリーが待ち構えていたように話し始める。

「ところでユースケはマイと知り合いとかいうオチはある?見たところ、そんな雰囲気いっぱいなんだけど」
「違いますよ。まあ、同じ日本人ですから親しみは感じますけど」
「そそ。ミリーは何でも勘ぐりすぎ」
「……かなり怪しいんだけど。まあいいわ。一つ言いたいのが、私のマイを奪わないでよねー棒の有る無しは一般女性には重要なことみたいだし」
「…だからあたしはあんたの所有物じゃないっての!大体人を性欲に溺れて売女の道に突っ走ってますみたいに言うなっ!」
「わからないわよー?あれでしょ、日本からの留学生、つまりはユースケだけど、そいつが来ると聞いたら日本に残してきた想い人を想像しては、夜な夜な悩みつつ枕とパンティーを濡らしてたみたいだし」
「してないわよっ!」
「えー……」
「何で残念そうにするんだか……」
「そんなマイを想像するだけで萌えてハァハァ出来るから」
「するなっ」

 ……さすがの祐介も、今のには軽く引いていた。そりゃそうだあたしだって引く。


 ゼミ後、何故だか強引に飲み会を開かせたがるのをあたしと祐介がどうにか宥めて(実際、祐介は到着翌日だった)、その代わりに近場のレストランで3人でディナーを堪能する。途中、ミリーがかなりしつこくあたしたちの関係を探ろうとしたが、「全く関係ない」「夢見すぎ」「それは違う気が」「いいのよ人を妄想の糧にしたんだし」「こっちの流行?」「んな流行地域は封鎖指定モノだから。ミリーが変なだけ」「そうなんだ……」などと、初対面設定のわりには抜群のコンビネーションを発揮して黙らせる。話してるうちに昔が戻ってきて誤魔化すのがつらくなったが、あまりにもあたしたちが否定するためか、最終的にはミリーが「もう、それでいいから……私には言葉攻めを受ける性癖ないみたいし……」などと折れてくれた。ミリーに余計な性癖が付かなかったことも併せて喜びたい。

 店を出た後一旦3人はそれぞれの家(祐介はホテルだったが)に向かって別れた後、こっそりとミリーを気にしつつ祐介と合流した。こんな時、異国語というのは便利だと痛感。内緒話に使いやすい。

 何処かで話そうということになり、結局祐介の泊まっているホテルに向かうことになった。本人がどう思っているか知らないが、あたしとしては少し気後れするものがあった。けどまあ祐介だし。何にもないだろう。大体何って何なんだか。エロ女王が移ったみたいでいやだ。

「……なんか落ち着きないけど、どうした?」
「気のせいよ、気のせい!大体祐介が落ち着きすぎてんのよ。その、久しぶりなわけだし」
「うーん、自分でもわかるけど、久しぶりな気がしないんだよなぁ。いつもこんなのばかりだし」
「へっ?」
「あー、こっちの話。ま、上にバーがあるから少し飲みながら話そうよ。色々話聞きたいし」

 ……気になる。だけど祐介が打ち切った以上、突っ込むことが出来ない。話したくないことは祐介はまず話してくれないし、表に出さないだけで機嫌も悪くなる。

 まあせっかく会えたわけだし、と自分を納得させて大きなドアを祐介に続いてくぐる。あの頃とあんまり背は変わらないなぁ、などと多少場違いな思いを抱いてしまうのはご愛敬。
 ……なんやかんやでドキドキしてしまっているのが少しだけ嫌で、だけど心地よくもあった。

「まあとりあえず久しぶりを記念して」

 バーの窓側カウンターに座り、互いに注文したカクテル(ソルティードッグとスクリュードライバー)が到着したとこで、祐介はグラスを少し掲げた。気障な仕草をやってのけるあたり、やはり奥は見えない。隠れて苦笑してから、あたしも小さく掲げた。

「まー、何にしても、うちのゼミに超短期でやってくる変人日本人が祐介なんて、さすがに思わなかったわよ」
「それは……驚いてもらって何より」

 例のうっすい笑みを張りつかせて、ほとんど透明な液体を飲む様は、あたしをひどく慌てさせる。何故かはわからない。だって祐介だし。

「……まるであたしがいるのをわかってたみたいな口振りね」
「そりゃあ、事前に名簿もらってたしね。名前見たらわかるさ」
「ふーん……」

 初回と同様の微かな違和感を感じ、オレンジ色を飲んで誤魔化す。あたしの何処かが、今この場で起きていることがおかしいと訴えているけど、理由がわからない。枠線の不明瞭な何かが、一つの形に収束しようとしては失敗する感じ。もやもやもいつかは把握できるのかもしれないけど、あたしに何をもたらしてくれるのだろうか。

「肝心のこと聞き忘れてたけど、なんでこんな無駄なことするわけ?祐介の選んだ行動にしては、今回の留学は御粗末な気がするんだけど」
「うーん、ずはり直球ど真ん中、みたいなところを突く性格はあの頃と変わらないなあ」
「その辺は自覚してる。むしろ周りのおかげでもっと鋭くなったかも」
「喜ぶべきこと、じゃあないなあ、俺としては」

 顎に手を当てて苦笑する様が、憎たらしいほど似合っている。
 仕草一つ一つに、昔にはない柔らかさがあった。あたしは尖っていくばかりなのに、祐介が柔らかくなっていくとなれば、あたしに足りないものがあるに違いない。

 あたしたちは、似た者同士なのだから。

 苦笑の後幾分の黙考を経て、祐介はため息混じりにあたしに対する解答を掃きだした。

「まあ、ね。わかると思うけど留学はおまけ。せっかく海外へ行こうなんて思ったからには、ついでに学んでみるのもいいかなって」
「ついで、ね……」

 こんなのがいるから、留学の門が狭いんだと思った。
 タイミングよく、頼んであったフィッシュアンドオニオンが到着する。場末の飲み屋と違い、それなりなホテルの最上階にあるせいかとりあえず見た目は悪くない。綺麗に揚がった白身魚とオニオンリングのフライがタルタルソースとともに盛り付けられている。

「うーん、せっかく来たからにはお約束のものを、と思って頼んだんだけど、予想よりはおいしそうだね」

 何だか場違いな台詞を吐いてから、祐介はオニオンリングを一つ口にした。

「うん、塩加減だって悪くない。逆の意味でがっかりしたかも」
「そりゃあホテルにある店だからでしょ。友達に何回か連れていかれたけど、その辺の飲み屋は日本の大衆居酒屋よりもまずいわよ」
「……高校の途中から留学してたはずの人が何で日本の居酒屋事情を知ってるのか、非常に気になるところだけどね」
「父親に何回か連れていかれたことあるから」
「それは元気な方だことで」
「少しくらいくたばってほしいと常々思うけどね」

 陰気臭くなったので、話すのを止めてフィッシュに手を伸ばす。

「……やっぱりこれってビールのつまみよ。カクテルにはあわない」
「いいだろ、別に。来たからには色々堪能したいんだ」
「留学をついでと言い切れるような理由で来たことだしって?」

 先ほどの話へと切り返すと、不釣り合いなつまみを肴に祐介は黙ってカクテルをあおった。それはやっぱり不釣り合いな飲み方。カクテルとチューハイか何かと勘違いしてるんじゃないだろうか。

 幾らかの無音部分を経て、祐介はあたしの目を見て話しだした。

「ちょっぴり忘れてきたものを拾いに、ね」
「忘れてきたもの……?祐介前にここ来たことあるんだ」
「いいや、これが初海外。当然来るのも初」
「……なら何よ、その忘れてきたものって。どうせあの頃と変わらずみょうちくりんな例え話なんでしょ」
「みょうちくりんとは失礼だなあ……不思議な暗喩とでも言ってほしかったなあ。まあ、自分でもカラッポのポケットなんて例えはへたくそだと思ったけど」
「はぁ……」

 今回使われてない話まで出てきて、余計に頭がこんがらがる。昔と同じで、肝心な時になるまで直接表すことをしてくれない。まだ核心には触れないつもりか。気付かれないよう溜息を一つ吐いた。

「まあ何にしても、よ」

 祐介とは別の意味合いを持たせてカクテルをあおる。こんな飲み方の為にバーテンダーが作ったわけじゃないだろうけど、知ったこっちゃない。

「その忘れ物とやら、あたしにも探せるものだったら力を貸すわよ?せっかく無駄な運消費して会ったことだし」
「無駄ってまた失礼だなぁ……んで、申し出はありがたいけど、遠慮しておくよ。忘れ物自体はわかってるし、見つかってもいるんだ。問題は、俺が拾うことが出来るかどうかなんだ」
「はいぃ?見つかってるなら別に拾えばいいじゃない。出来なかったら本当に無駄になるだけじゃない」
「……簡単に言い切るところは同じだなあ。まあ、来た以上は君の言うとおり無駄な事にしたくないから、ちゃんと拾うけどね。まだ時期じゃないけど」

 話を打ち切ることにしたのか、祐介はグラスの中身を飲み干して店員に新たに注文をした。ついでにあたしもスクリュードライバーをもう一杯頼む。

 飲み物が届くまで、あたしたちは無言だった。あたしはあたしで話したいことが山ほどあるはずなのに言葉に出来なくて、祐介は祐介で相変わらず何かを言いたそうな表情をわずかに浮かべては押し沈めるを繰り返していた。
 着かず離れずの微妙な距離はあの頃――高校時代の少しだけ甘酸っぱさを知らずに堪能していた頃――と変わらないけど、今となってはもどかしい。今更ながらに、あたしという人間はこの掴みにくい人間が好きなんだなあ、と気付いた。もし、なんていう仮定は本当は意味をなさないけど、昔に戻れたとしたなら、あたしは間違いなく祐介の傍へと一歩踏み出していただろう。そして、きっと祐介も受けとめてくれた。何ら問題はなかったのに、あたしたちは選ばなかった。
 自業自得、なんて言葉が浮かぶ。選ばなかったから今のあたしがわけわからない悩みにストーキングされてるのだとしたら、本当に自業自得。
 祐介の言う忘れ物が何かはわからないけど、同じようにあたしにも忘れ物があるのだ。そして、きっとその中身はコレなのだろう。
 祐介のも同じモノだったらいいのに、と思ってみたが、祐介の性格からあたしを追い掛けて、なんて事は考えられず、ちゃちな想像はゴミ箱に捨てることにした。

 2杯目の飲み物(祐介は何故かビールをグラスで頼んでた)が到着して、再度祐介は話しだした。

「……少しは俺は変わったのかな」
「変わった、って?」
「んー、高校時代から今に至るまで自分が変わったのだろうかって悩むんだよ、たまに」
「へぇ……悩みっぽいのは変わらないわね」
「……それだけは変わらないなぁ。あの頃はそれで君によく笑われたっけ。あれ、わりと傷ついたよ」
「一応反省してます、今は」
「……なら、君は変われたのかもしれないね。俺も少しくらいは変わらないとなあ」

 そんなことはない、あたしの方が変わってなくて、祐介は変わることができた。
 言いたい言葉を紡ぐ前に、別の意識が口の動きを遮る。さっきから付きまとって離れない違和感が、口にした瞬間に現実のモノとして現れそうで恐い。
 きっと、あの頃の祐介を最も知っている人間として、あの頃の祐介が好きなヒトとして、昔とは違っている部分が見えてしまっているのだ。でも、見たくない。

 認めた時、あたしには落ち込む以外の道が残されていないだろうから。

 ……いつからこんなに恋に悩む純情ガールになってしまったんだ、あたしは。

「いつだって、」

 あたしの沈黙を、先を促している沈黙ととったのか、再び祐介が話しだした。

「俺は臆病なんだよ。進まなきゃいけないのに止まってしまう。今回のだって、止まっていたから来なきゃいけなくなったし、来てからも躊躇してばかりなんだ。幾らでも拾うチャンスは転がってるのにね。時期じゃないなんて、単なる言い訳。わかってて出来ないんだからタチが悪いね、俺の変われなさは、思い切りの悪さは。あの頃も、今も」

 視線が窓の外、広がる街並に落とされていた。特有のスモッグに沈む、ぼやけたライト達が弱く自己主張している。
 鈍い輝きに何を見ているのか……相変わらずわからない。わからないから、あたしは不安になる。ああ、確かにこればっかりは変わらない……祐介を好きになるヒトはみんな不安になるんだろうなぁ、と思ってみるが、こんな変な人を好きになる物好きなんてあたしくらいじゃないかと考え直す。物好きは、一人でいい。気付けばあたしは、華奢なようで肉付きのよい祐介の肩に腕を回していた。

「ならあたしは、ちょっとだけ思い切りのよさを祐介にあげるよ」

 自分でもわかる浮ついた台詞。何故あたしはこんなに必死になっているのだろうか。
わからない。少なくともあたしのキャラじゃあない。
 もうちょっと顔を近付けて男の割りにはきめの細かい、だけど髭はちゃんとある頬に口付けしろと誰かが囁き、今すぐ離して冗談にすませろた誰かが告げる。その間であたしは固まったまま。何も出来ない。よく、わからない。

「本当に、もらえたらよかったんだけどね」

 こんな時でも祐介は変わらない。薄膜一枚はっつけて、はぐらかす。

「思い切りの悪さは本当に治らないなあ。こうして、後悔が積み重なっていくっていうのに」
「祐介……?」
「もう、遅いよ。家まで送っていこうか?場所知らないけど」

 あたしの手を優しく掴んで首から外して、祐介は相変わらずあっちの方を見たまま告げた。嘆息して行き場を失った腕を力なく垂らしてから、あたしは声を出さずに頷いた。

 会計とチップ分の代金をカウンターに置いて祐介が立ち上がる。あたしも後に続きバーを出た。
 ホテルの玄関からも出ると、この街特有のくすんだ空気に包まれる。昼も夜も変わらず、わずかな影を落としている。

「こうも空気が濁ってると息苦しいなぁ」
「慣れたらどうってことないわよ」
「……さすがに一週間じゃ慣れそうにないよ」
「……それもそうね」

 濁ってる、という言葉があたしたちの間に漂う空気を的確に指しているようで、ますます重苦しさを感じた。
 そのまま、無言であたしの住むアパート前まで着いてしまう。言いたいことは山ほどあるはずなのに、言えずじまい。ただ、腕を伸ばしては優しく拒絶されただけ。
 なんだかなーと、小さく声に出して呟く。あたしたちって、こうだったっけ? あたしが過去に縋りつきすぎてるだけ?

「さっきの、さ」

 立ち止まったまま、祐介が話し掛けてきた。

「うん?」
「さっきのバーでのことだよ。俺としてはさ……」

 振り替えると、居づらそうに頬を掻きながら少しだけそっぽを向く、珍しい祐介が見れた。

「嬉しかったよ?だから余計、困るんだ」
「え、それってどうい」
「また、明日、な」

 あたしの言葉を遮り、祐介は来た道へ去っていった。ただ、佇むしかなかった。


 暗い我が家に光を灯し、テーブルにバッグを投げ置く。冷蔵庫を開けて、ドアポケットのミネラルウォーターを取り出しては一気に飲み干し、シンクに投げる。

 ……気が、晴れない。

 久しぶりに祐介にあったというのに。ぐわんぐわんと、様々な思いや考えが音を立てて渦巻いている。まとめようとしたところで、結論が「よくわからない」じゃあどうしようもない。
 どうしようもないので、シャワーを浴びて気持ちを切り替えることにしたる。服を脱ぎ、いつまでたっても慣れることのないシャワールームに踏み入る。浴槽がないので、お湯に浸かるという最上位クラスの極楽を味わうことが出来ないなんて、こっちの人間は何を楽しみに生きているんだろうと訝しむこと多々だけど、無い物ねだりはしても仕方ない。コックをひねり、程よい温度のお湯を浴びる。じんわりとした温かみが、やさぐれた胸の奥を温めてくれる。冷たかったモノが温かいモノへ……

 不意に、祐介の顔や、バーでの一連の行動が浮かび上がる。やはり、腕を回したのはやり過ぎだったのか、それとも……
 切なさが溢れる。同時に、やっぱり祐介が好きなんだなと再確認。あたしをあたしたらしめてるのは何かわからないけど、悩み出したのは祐介が近くにいないからでほぼ確定。ミリーの思う以上に恋する繊細な女だった、ということか。

『彼を想っては夜な夜な自分の指で慰める毎日……マイ、不憫すぎて可愛いわよ』

 ミリー、というある種不穏な単語が出てきたせいで、余計な会話文すら思い出してしまう。
 ……自分は不憫すぎるようでもあった。温もり過ぎて、胸の奥だけでなく身体の奥が疼きだす。自然と、指も動く。観念して、沈めるための行為に及ぶことにした。

「アホか、あたしは……」

 そして風呂上がりには余計な罪悪感に襲われた。夢見る少女はこんなことしないし、純情ガールにしてははしたない行為。別に自慰行為自体を嫌悪する気はないが、今回のは動機がひどすぎる。

「……久しぶりに会ってあんなんだから、余計ひどいの……?」

 自問に答えはない。
 はた目に見たら、今のあたしは相当痛いんじゃないだろうか……?

「馬鹿らし……寝よ」

 唐突に全てがどうでもよくなり、あたしはベッドに転がった。ここまで来ると開き直れる、というのは新たな発見だろう。

――どうか、悩むことない明日がきますように。無理だろうけど。


 唐突な出来事が起きた後は、概ね平穏な日々が続くものである。
 祐介の突如の短期留学による襲来から早5日。言い換えれば、祐介の帰国まで後3日、ゼミ自体にいるのは2日。時間が経つのが早いのは歳食ったせいだけなのだろうか。
 ここまでで、祐介は見事にゼミに溶け込んでいた。あたしと違い生粋の日本人ということで重宝がられたし、各種雑多な質問――食べ物の好みから今の日本経済に対する短観、はたまたアキバにおけるオタクの勢力分布までも――に祐介は例の完璧なクイーンズ・イングリッシュで答えていた。どうしてアングラな文化にまで精通しているのかは聞かないことにした。

 あたしに対する祐介の態度はといえば、何一つ変わることが無かった。高校時代と同じまま、ホテルの一件はありませんでしたと言わんばかりの現況に憂いを抱かずにはいられない。
 同じ距離で居続けることは簡単ではないし、本来ならありえなかった位置に(わずかな時間とはいえ)祐介がいるのだからうれしいのはうれしいが、意識してしまっている以上もっと近い距離にいたい。近しい関係になりたい。
 ……あたしのキャラじゃないが、しようがない。ミリーに冷やかされないよう誤魔化すだけだ。

「……今まで何度も繰り返したとおり、80年代終盤からの日本の不況は様々な要因が存在する複合不況だと言われています。海外の投資家たち、あるいは日本国内の投資家たち、そして東証のシステムそのもの、様々な要因が、株価の高騰を……」

 教授の言葉をノートに写しながら、隣をこっそり見る。ちゃっかりと(?)あたしの横に座っては、丁寧にノートテイクしているふりをしている。取るにはとってるが、時折違うノートに教授の話とは別のことを書いているのだ。高校時代も同じことをやっていて、曰くモノカキになるために考えているネタ帳だとか。掴み所のない人間は果たして作家に向いているのか、微だと思うが逆に合ったりするセカイかもしれないので、あたしは何も言わない。
 変わらない。変わらない強さも必要だろうけど変われる強さも時にはなきゃいけないんじゃないだろうか。どこぞの英雄譚にありそうなコトを一介の恋愛話に適応させるのは大げさだけど、何事にもいえるんだから当てはめても許されるだろう。許してくれない人がいたら、神様だろうと一発お見舞いしよう。

 ……ますますあたしはヤバい方向に向かってるんじゃないだろうか。

 講義が終わったところで、いてもたってもいられなくなったあたしは、後ろ向きがちな自分に鞭入れて行動に移ることにした。当然、ミリーにはばれないように。「一緒にラブメイク、じゃなくてビュッフェで新作ケーキ食べようよー」との誘いも丁重に辞退。お腹がなったのも無視。ケーキより大事なことがある。名残惜しいけど。

 ミリーが肩を落として(いちいちリアクションが大きい)行った後、隣でぼけっとしていた祐介に声をかける。

「ねえ、祐介」
「ん……うん?」

軽く意識が旅行してたのか、祐介にしては珍しく鈍い反応が返ってきた。レンズの焦点が遠距離から近距離に合わせられるように、注意の方向が明後日から今日まで戻ってきた。

「どうしたの、疲れてるとか?」
「いや、ちょっとね……」
「今更異国の地で気疲れしましたとかじゃないわよね」
「まさか。……普通その手のホームシックが発動するのはこの時期からひと月くらいの間だろうけど、知らない人他国語のど真ん中だから家に帰りたくなりましたなんて思うほど柔じゃないよ。ま、気疲れっていうこと自体は正解だけどね」
「へぇ、何にしても、気疲れなんてするようなタイプだっけ?」
「失礼だなぁ。そりゃあ精神的にまいることの一つや二つくらいはあるさ」

 ため息までついて、やれやれ感をアピールしてくる。……おかげで切り出すタイミングが取りづらい。
 躊躇して言葉が出なくなったあたしを見やってから祐介は自分の話を進めた。

「もしさ、期待してはいたけど外れてもほしかったことが実現したとしたらどうする?」
「……はいぃ?」
「嬉しいっちゃ嬉しいんだよ。だけど喜ぶわけにはいかないというか」
「それがお疲れの原因なわけ?」

 思考が恋愛モードに入っていたあたしにはすぐに答えられない問題だった。祐介のことだから、大したことないモノすら深く考えてるのかもしれないが、何ともいえない。疲労に繋がるくらいなのだから判断がしにくいし、答えるのも難しい。
 結局。

「……いい事にはかわりないんじゃないかな。だから、それはそれで、みたいな」

 そうだけ答えるので精一杯だった。

「素直に喜べって?んな無茶な……」
「だって喜んだ後どうすればいいか考えたらいいだけでしょ」
「何だか手順が前後してるだけのような気がするなぁ。鶏が先か、卵が先か」
「悩んでるときに贅沢言わない。そんな身分じゃないんでしょ」
「まあ、そうなんだけどね。やっぱり悩むなあ、これ…」

 ……どうやら、祐介の悪い癖(あたしにしてみたら、だが)である、“何にでも盛大に悩む”が発病しているらしい。ヒトが決心してさあ、というとこにこれだ。なんて間が悪いのだろうか。もし全ての出来事が、誰かの手で導かれてるとしたなら、そのシナリオライターをはっ倒してやりたい。
 とはいいつつもどうもしようがないし、残念なことに時間も残されていない。頭の中で色々シミュレートしてから、祐介の隣に腰掛けた。
 多分、吐き出してもらったほうが早い。多分。

「で、実際のところ何があったわけ?言えない話なら無理に言わなくていいけど、ある程度は出したほうが楽になるわよ。昔も同じ事をよく言った気がするけどね」

 何だか変わりないなぁ、と幾度にも渡るここ最近のお約束思考はとりあえずごみ箱に捨てた。前向きな話をしなきゃならない時に後ろを気にしたって仕方ない。
 横から見た祐介の顔には多少の疲労色が浮かんでいた。あたしの方ではなく前を向いているので横顔しか眺めることができないけど、頬が少しだけ痩けた感じがする。
 そういえば、祐介がここに来た目的をちゃんと聞いてはいないなーと思い出した時、ようやく祐介の口が開いた。

「まあ、いっか」

 ……聞いたこっちの気が抜ける言葉が出てきた。まあ、いっかって、なんだそりゃ。

「なんだそりゃ、はひどいなぁ……それなりに考えたのに」
「……なんで心の叫びが聞こえるわけ?」
「声に出てた叫びが心の叫びなら、そりゃ聞こえるだろうさ」

 ……脱力感は唇を閉じることすら忘れさせてくれたらしい。

「だいたい、『まあ、いっか』って何よ……」
「や、もう頃合いかなって。来た理由だとかもろもろ話す頃合いね」
「あー……それならそうと先に言ってよね。思わずへたりそうになったじゃない」
「ん?まあいいけど」

 よくない、と言おうとしたところで祐介の目に力が籠もっているのがわかり、口をつぐんだ。さて、何がある……?

「さて、話す前に君に一つ聞いておかないといけない」
「……あたしに?」
「そう、君に」

 じーっと、あたしの目を覗き込んで。ともすれば顔に動揺が表れそうなのを堪えて次の言葉を待つ。

「説明から入るか、核心から入るか。初球をストライクにするかボールにするかは任せるよ」
「……つまりは長くなりそうな説明は先にするか後にするかってこと?」
「長くなるかはわからないけどね」

 一瞬だけ黙考。そしてすぐに結論を出す。

「やっぱり最初はストライクからでしょ」
「……いや、そうとも限らないんじゃないかなあ。ノムさん辺りに聞いてみたいところ……じゃなくて、最初からど真ん中、ね。らしいっちゃらしいけど」
「……暗に、どころじゃなくて思いっきり皮肉ってない?」
「まさか。俺には足りない部分だなあと心底羨んでるつもり」
「あ、そ……」
「って、こんなこと言いたいんじゃなくて」

 二度三度頭を振ってから、祐介は


「舞、ずっと好き、だったよ」


とだけ告げた。あまりにもすんなり言うから、あたしは最初上っ面でしか理解できなかった。

「あ、それは、あの、ありが……うん? だっ、た……?」

 口に出して初めて気付く違和感の正体。過去形。
 あたしに二の句をつがせる前に祐介が続ける。

「色んな意味で、君にそれだけを伝えたかったんだ」
「……まさか、それが、祐介の言ってた……」
「そ。忘れ物。あの頃に置いてきた、ね。どうせ君のことだから、無駄なことに無駄な行動力使って、とか思うかもしれないけど」

 自嘲気味に響く声の中、あたしの頭はフリーズ後の再起動を完了して、ぐるぐる動きだす。そして、祐介に会ってから今日までの会話なりなんなりを全てつなげていく。
 ……最初から、祐介の計算した通りだった、ということだろう。何であたしが留学先のゼミにいたのか知ってるのも説明がつく。あたしに、会いにきたんだから。
 聞きたいことが山程あった。だけど、どれもが祐介に投げたとしても意味のないものであろうことが容易にわかった。
 だから、あたしはたった一つだけ、聞いてみた。

「……何で、過去形なの」

 祐介の表情が変わる。
 歯を噛み締め、つらそうにしてるのを目の当たりにして初めて、あたしの恋が終わったことを悟った。

「すごく身勝手なんだけどさ、」

 前置きが一つ置かれる。
 今一つ読みにくいと高校時代に評判だった祐介の表情は、苦虫をつぶした時のようなしかめっ面に変わっていた。
 初めて見る表情だった。

「一つのけじめ、なんだ。俺なりの。あの頃と今では、ある部分では変われてないのに別の部分で変わってしまった。変わらなきゃいけないから、最後の一歩、ずっと踏めなかった分を進まなきゃならない。たとえ昔に戻ったとしても。そう、教えられたんだ。本当に身勝手ですまない……君を好きだった、という事実は変わらないし、今こうして再開しても、その感情自体は変わらない。けど……」
「……あっちに、日本に、あたしよりも好きな人、いるんでしょ?」
「……ああ」
「やっぱり、祐介の方が変われたんだね。うん、祐介はあの頃よりもちゃんと前に進んでる」
「そう、かなぁ……?」
「悩むことないよ。あたしの好きな人は、前に進んでます。あたしも、進まないとね……」
「……ありがとう」
「お礼を言われるくらいなら、一つ頼み事していい?」
「叶えられる事ならなんでも」

 表層では誤魔化せていたけど、胸の奥深くから熱いものが込み上げてきていて、抑えられそうになかった。

「……胸借りて、大泣きしていい?」
「ご自由に」

 少しだけよれたボタンシャツの裾を掴み、額を服ごしに胸板に当て、

「……祐介の、馬鹿ーっ!!」

 思いっきり叫んでみてから泣いてみた。わかってはいたけど、やっぱり大泣きした。止まる気配もなく、涙はひたすら流れ出てきた。

 何事も、いつかは終わりを迎える。あたしのちゃっちい恋心も、溢れる涙も、ひとしきり出てきたところで終焉。
 何かで読んだ話に、「涙には感情成分が含まれているので、涙を流すと落ち着く」というのがあったけど、その話を実証するようにあたしの心も落ち着きを取り戻していた。
 泣き腫らした顔を見られるのが嫌だったのでずっと祐介の胸にうずくまるような形になっていた。服をしわくちゃにしてしまっているけど、あたしを泣かせた罰、ということにしておこう。
 冷静になるにつれて、だんだんと感覚が戻ってくる。それから、ここ数年ですっかり聞き慣れてしまった言語、つまりは英語がちらほらと耳に入りだした。上書きするように、祐介も何かを話してきた。

「あー、舞さんや、ちょっといいかい?」
「……何よ」
「ここがどこだったかを思い出した上で周りの言葉に耳を傾けてもらうと、何が言いたいかきっとわかってくれる、と思う」

 ここ、えーと……と一瞬考え、ゼミの講義室だということを思い出す。で。

「マイって意外に純情系?かなりガードかたそうだけど」
「あの短期留学生、やるなぁー。マイをあそこまで……」
「でもこれでマイはレズビアンじゃないことがわかったわね。残念、ミリー」
「まだまだこれからよ!このミリー様のゴールドフィンガーにかかれば、マイだってイチコロよ」

 ……ひそひそ話にしては遠慮のない内容と音量を伴って、ゼミ生達の会話が耳に飛び込んでくる。派手な妄想やらメチャクチャなスラングやら、あたしと祐介の状態から推測できるありとあらゆる話が飛びかっていた。へえ、あたしってそんなに堅そうに見えたんだーとひとしきり驚いたところで、うじうじモードから通常以上へとスイッチ切り替え。

「えーい、見せモンじゃない!」
「それ、思いっきり日本語」
「あ……Go out as soon as possible!」
「マイ、ここゼミ室なんだけど……」
「知らないわよ!」

 泣き場面をみられた後ということも相まって、あたしは恥ずかしさのあまり派手に混乱していた。……と頭の片隅は冷静に分析してくれるのが余計に他の部分を混乱させる。こんなときまで冷静なあたしの一部分が今は憎らしい。

「さあ、どうしますかねぇ。まあ俺はもうちょっとしたらここを発つけどなー」

 さらに憎たらしいことに、あたしをこんな目にあわせた元凶(主観が多分に入り交じってるけど)を見上げてみたら、この状況を楽しんでるのか口に指をあててクククと悪趣味に、だけど本当に面白そうに笑っていた。こいつ、こんな笑い方したっけ……
 訝しむあたしに、追撃。

「まあ、舞の慌てるかわいい姿もみれたことだし、それだけでもここ来た甲斐があったかな」

 混乱の続いていたあたしは、これが祐介なりのフォローだと気付かず、

「諸悪の根源が言うな、このバカ祐介ーっ!」
「ぐ、ぐぉっ……」

 綺麗に拳を入れていた。
 俯きながら「ごめん、舞……」と呟いた祐介の声でまた泣きそうになったけど、今度は堪えられた。代わりに追撃を一つ、お見舞いした。


 そこから先は、あっという間に時間が過ぎていった。
 祐介の送別パーティという名の、噂の真相追及会。友人たちのまあ突っ込むこと突っ込むこと。結局あたしがまだ日本の高校にいた頃、祐介と同級生だったことがバレてやんややんや。ゴシップ好きは民族を越えて人類不変の趣向なんだろうと、拳を握り締めながら納得した。
 出立前日になって、英国土産を買ってないとか抜かしたので、そんなもの空港で買うかもっと早く言うかにしなさいよ文句を垂れながら付き合ってあげた。大体イングランド土産なんて考えられないわけで、適当にペナントを買わせた。非常に嫌そうな顔をされた。一個だけ、ビッグベンを形どったオルゴールも買わせておいた。何故?という顔をしたので軽く殴り飛ばしておいた。
 次の日、「あの、昨日殴られた背中が、赤く腫れてるんだけど」と言ってきたけど華麗にスルーしておいた。

 別れる当日まで、あたしたちの関係は変わらなかった。
 高校時代のまま、親友的なポジションのまま。適度にじゃれあいふざけあい会話を交わす間柄。
 あたしは、あの日からも変わらなかったことに、あたしは祐介の持つ本当の優しさと、もう変えることのできない距離を感じ取った。

『じゃあ、また会う日まで』
『さあ、もう会うことないんじゃない?』
『んな連れないこと言うなよ……』
『さあどうでしょう?』
『……ゴメン』
『……謝るな、バカ』

 本当に最後の最後、こんな会話を交わした後で祐介は右手を差し出した。

『……虫がいいことで』

 祐介はほんの少し、奥歯を噛み締めたような表情を浮かべた。だけど何も言わなかった。
 あたしはやれやれとため息をついて、その手を、握った。

『じゃあまたね、あたしの親友さん』

 安堵した表情。
 二言三言交わしてから、祐介は搭乗ゲートの中へ消えていった。その背中に、『そして、あたしの好きだった人』と小声も投げ掛けておいた。

 ここまで、本当にあっと言う間だった。ついで言うと空港から帰ってきたのはついさっき。
 アパートの窓を開け放つ。外に広がるのは、もう見慣れてしまったロンドンの曇り空。いつだって、曇り。

「次に会うときは、ちゃんと親友でいて、あげるから」

 最後にもう一度だけ、ほんの少しの間だけ、あたしは涙を流した。
 祐介について泣くのはこれで最後だと、心うちで誓った。


「ほらほら、もっと飲めー!」
「あんたは酔っ払いオヤジよりタチ悪いわ……」
「あーん?“俺の酒が飲めない”ってかぁ?」
「いや、いちいち日本のスラング英訳しなくてもいいから」
「ほら、日本のイザカヤの雰囲気が出るかなって。こういうときは日本だとイザカヤでグチグチ言い合うが正しい友情関係なんでしょ?」
「初耳だからそんなの。ほんと、どっから偽情報仕入れてくるんだか……」

 喧しいミリーを放置して、グラスを傾ける。中身は黒ビール。白と黒のコントラストがいつまでも保たれているあたり、注ぎ手はいい技量をもっているのだろう。

 とあるバーのカウンター。シャワーを浴びてさあふて寝してやろうと思った矢先、

「マイ、飲むわよ!」

との誘いがミリーから来た。こんな日くらい寝させてよと電話を切って放置したら、家まで来て「マーイー、飲もうよー」とドアを連打して騒ぎ立てる始末。ご近所迷惑を防ぐために、あたしは渋々自棄酒をあおらされている、というわけだ。やれやれ、とやさぐれてみてはまたグラスを傾ける。

「まったく……人が元気付けてあげようかしらとしてるのに、何で辛気臭そうな顔するのかしら」
「……辛気臭そうな顔してるから元気付けるもんじゃないの」
「あー、そういえばそうね。ま、ともかく飲め飲め。潰れたら部屋にお持ち帰りしてステキなコト体験させてあげるから」
「一言以上余計だし、んな下心オープンな誘いには乗らないわよ」
「ちっ……」

 今、本気で舌打ちしたなコイツ。

「冗談はさておき」
「……絶対冗談じゃなかったでしょーが」
「まあまあ。頼まれてるのよ、ダチたちから」
「……ミリー、日本語絶対わかってるでしょ。今発音完璧だったし」
「まあまあ。でね、絶対マイが凹んでるから元気付けてやれって。手段問わず」
「お願いだから選んで」
「コレでも睡眠薬もってお持ち帰りしようとしないだけましでしょ?」
「ましとかの問題じゃないし」
「いちいちつっこまない! で、マイの純情な感情を理解してる私だけど、どーしてもあることが聞きたいのよ」
「はぁ……疲れてきたから、真面目に答えてあげるわよ。何?」

 途端、ちゃらんぽらんな雰囲気を消し、ミリーはあたしの目を覗き込んで、こう聞いてきた。

「マイ、彼の事、諦められる?」
「……はい?」

 いきなりな質問。あたしは思わずぼけた聞き返しをしてしまう。おそらく、というかまず間違いなく、彼とは祐介を指しているだろう。

「だからー、例の日本人の彼と別れたわけでしょ?」
「いや、そもそも付き合ってないから」
「じゃあ失恋。言ってることかわらないでしょ」
「まあ、それはそう、だけど……」
「しかもハイスクール時代から抱えたのがサヨナラ。それで、諦められる?」
「ううっ、うるさいわね、諦めるわよ。諦めるしかないでしょ」
「本当に?」
「しつこいわね、あたしは、」
「へぇ、諦められるんだ。マイって意外と冷淡ね」
「……そりゃ、あたしだって、気持ちの整理つかないとこもあるけど、あいつを悩ませたくないし……」
「恋ってさ、相手を悩ます行為、そう思わない?」
「……だんだん何が言いたいのかさっぱりわからなくなってきたんだけど」
「簡単な話よ。私のかわいいかわいいマイが、」
「あんたの所有物じゃないって」
「話切らないの!ともかく、マイが恋に悩んでる姿がとっても健気、あ間違えた、かわいそうで仕方ないから、一肌脱ごうかと」
「所々本音が漏れてるけど、大体どー脱ぐわけよ?」
「普通に、服を」
「そんなボケを、って本当に脱ごうとするな!」

 まあまあ、そういってミリーは服を脱ぐ……ふりをして、懐から一通の封筒を取り出した。

「何、それ」
「マイがまだ諦められないって言うなら、これをあげる」
「はいぃ?」
「さあどうする?この中には教授含めたゼミメンバーみんなの気持ちがこめられてるわ。まあ先に言っておくと、多少のお節介と好奇心が1組程」

 よく、わからない。ミリーが何をしたいのか。
 ただ、それとは関係ない場所で、あたしの心は騒めきだっていた。

 本当に、諦められる?
 ミリーの問いは、私自身の問い。

 祐介の顔が思い浮かぶ。
 いつだってどこか抜けたような表情をたたえている。顔立ちは悪くない、というかいい。掴み所のない性格。2年ほどの付き合いがあったくせに今一つ把握しきれない人物。その癖、あたしに会いにくる突発的な実行力もある。
 まさに、よくわからない奴。謎の人物。変わらない。だけど……

「あ」

 あたしは唐突にあることを思い出す。そして、無性に笑いたくなり、笑った。

「ちょ、ちょっと、マイ? さすがの私もいきなり笑われると困るんだけど?」
「ああ、ごめんごめん、あることに気付いちゃって」

 そう、あたしはあることに気が付いた。そうだ、思い出した。あたしは、言ってないっけ。
 そして。

 あたしはやっぱり、その変な奴が、好きで好きでたまらなかった。

「うん、あたし、諦められない」

 ミリーは優しく、少しだけ意地悪そうな笑顔で、あたしに封筒を渡してくれた。


「うーん、何でこんなことになってるんだろう……」

 あたしは一人、扉の前で疑問を浮かべていた。
 今の状況が、本当によくわからない。祐介が帰った日、そして酒場でミリーから封筒を渡された日から丸一週間。強いて言うなら、あの日の翌日から、猛烈な忙しさに見舞われた、とだけはいえる。
 そんな精魂くたびれ果てた、今。

「なんであたし、日本にいるんだろう?」

 日本にいた。おまけにいうなら、とある都内多摩地区の国立大学。さらに言うなら、その中にある一教室の目の前。
 正直に全てを言うなら、ハメラレタ、ということだろう。ミリーから受け取った封筒の中身は、この大学のとある研究室にしばらく留学せよ、というルゴール教授からのありがたーい指令書が入っていた。旅券、アパートの鍵と権利書、その他エトセトラエトセトラ。ようするに、日本で学生生活を送れる一式の書類ならびに所持品(家具などは既にアパートに搬入されていた)をプレゼントされたわけだ。

『ちゃんと例の留学生掴んでくるまで帰ってくるなよー』

 ……仲間一同の寄せ書きつきで。意外だったのはそこに教授の名前もあったということだ。どーやら、なかなかに笑える人だというとなのだろう。ぽんと数百万出せるあたりもよくわからない。
 ああもう、本当に世の中わからないことだらけ。わからないことだらけだけど。

「前もって話は伝えたけど、本日よりしばらく、一名イギリスからの仲間が加わる」

 なんだかつい最近聞いた言葉。まさか自分が該当者になるとは。苦笑。でもわるくない。

「では入ってきてくれ」

 うちの実はお茶目な教授と裏でがっちり手を握り合ってるだろう、経済学の教授に呼ばれ、私はドアに手をかけた。
 胸の奥がざわめき立つ。

「……よし」

 決意一つ小声で掛け声一つ。
 さあ、入ろう。
 そして、言おう。
 ドアを開ければきっと、珍しく驚いた表情を浮かべたあいつが、そこにいるがわかっているんだから――


 あいつが帰ってきてから、気付けば1週間経っていた。なんで気付けば等という弱めな意思表示なのかというと、時が経つのを忘れるくらい私が浮かれまくっていたという、ヒジョーに恥ずかしい事実が原因だからだ。今思い返しただけではずい。いつから私はこんな純情ガールになったのやら。いや、自分で純情なんていっている時点でまたはずいのだが、永久ループになりそうなのでやめておく。
 ともかく、祐介がやることやってきて、ようやくスタートラインを踏み越えた。一部からは冷やかし、極々一部からはやっかみ(具体的に言うなら弘子。まだ新しい恋に出会えてないらしい)があったが、私には効かなかった。

 まとめると、私は祐介と恋人同士という自分で口にするのは恥ずかしいけど、望んでいた関係になれて、順風満帆な日々を7日過ごしてきたわけだ。

 つい、さっきまでは。

「前もって話は伝えたけど、本日よりしばらく、一名イギリスからの仲間が加わる」

 2分前、厳つい顔を更に厳粛そうな顔に仕立てあげた表情で、うちの教授は切り出した。
 というか、私聞いてないんですけど?
 横にいる祐介へと振り返ると、同じく「はぁ?」と、珍しく間の抜けた表情をしていた。見渡すと、皆一様。ということは、

「教授……そんな話聞いてないですよ?」
「ん、そうだったかもしれん」

 ほらやっぱり。どうやら、この人なりのジョークだったらしい。わかりづらいから困る。
 世間で資本主義がどうたらこうたらと述べるこの教授は、厳つい顔して中々にお茶目な人でもあった。しかめっ面をしていたのも、おそらく取って置きの何かがあって、それを必死に隠すためにわざわざ表情をつくろっていたのだろう。
 それに気付いたのが1分前。
 一体何が?
 そこまで思考が及ぶ前に、話が進む。

「まあ、いつまでもレディーを待たせておくわけには行かないから、早めに紹介させてもらおう。では、入ってきてくれ」

 そして、今。
 ゼミ室のドアが開かれる。
 入ってきたのは、何処からどう見ても東洋人。イギリスからの留学生と言っていた割には西洋人じゃない。何故?

 もう一度、祐介の方を振り返る。
 先程よりもより一層酷いボケ顔に変わっていた。そんな祐介の隠された一面を見て、ちょっと嬉しい。
 じゃなくて。
 頭の中が軋む。音を立てて回転。再度、彼女の方へ視線を移す。

 ……何だか、私と同じにおいがした。はて。

「I run after you this time. My close friend. I lov……」

 彼女は開口一番、英語でそう告げた。
 去年まで取ってたリスニングの知識を総動員して、このヒトが何を言ってるのか理解しようとする。
 今度は? 追いかける? 親友?
 意味がわからない。おまけに最後は何を言ってるのか聞き取れなかった。さすがに本場の英語は日本で居座るなんちゃって学生には厳しいか。

「あ、すみません、つい癖で英語になってしまいました」

 その後は日本語。びっくりするくらい普通の日本語。ということは、おそらく彼女は日本人。
 横から「わざとだ、絶対今のわざとだ……」と頭を抱えて呻く祐介の声。

 ――刹那、色んなものが繋がってくる。まさか。

 見れば、教授だけ必死に笑いを堪えていた。他の面子は全員わけわからないといった様子なのに。ああ、もう! 意味がわからない。
 いや、わかりたくない。

「はじめまして、イギリスより参りました春山舞と申します。イギリスから来ましたが一応日本人です。日本の高校にも通っていました。しばらくの間、どうぞ宜しくお願いします」

 恭しく頭を下げる彼女。
 相変わらず「なんで、何が、どういうことだ?」と小声で困惑しながら呻く祐介。

 頭を上げた後、彼女は、私の方に視線をよこした。
 映る瞳。
 ああ、やっぱり。

「And I am not defeated by you.」

 今度は私にも聞き取れた。

 ――英語での宣戦布告。なら、この人は、そしてさっきの言葉の続きは……

 どうやら、神様は一週間しか安穏とした平和な期間を私にくれなかったようだった。
 戦ってあげようじゃない。
 いつもの何処か抜けたような表情と、奥底の見えない、それでいて小さなことにも悩んでしまう、私の大好きなコノ人を賭けて。