MemoriesOff1・2/Piano
『それでは、白河ほたるさんの登場です』
ステージ両横に取り付けられたスピーカーから、進行役の声が流れる。その声にあわせて、壇上の女性が深くお辞儀をする。
湧き上がる歓声。それが、今の彼女の人気を物語る。
散々歓声と拍手が響いたあと、彼女はゆっくりとステージ中央のグランドピアノへと向かっていった。
しばらくして、ピアノからメロディーが流れてくる。
ベートーヴェン・ピアノソナタ第8番・悲愴。
あまりにも有名な曲。そしてあまりにも切なすぎる曲。
僕は未だに払拭することはできないでいる。あの、放課後の音楽室でほたるが演奏していた、この調べを。
終末というのは突然音を立てずに現れるものである。
ふとしたことでできたクレパスは、氷面下で徐々に広がっていく。
気づけば、僕と彼女の間には、飛び越すことの出来ない距離が広がっていた。
そしてその隙間を埋められないまま、彼女は留学のためにオーストリアの首都であり音楽の都でもあるウィーンへと旅 立ち、日本に残った僕はただひたすら空虚な時間を過ごしながらも、とりあえず千羽谷大学の工学部へと進学していた。
彼女には、夢があった。目標があった。実力があった。そして、勝ち取った。今や彼女は、日本が誇る天才ピアニストである。そして、この東京フォーラムA館という広大なスペースを、聴衆で埋め尽くすほどに人をひきつける力を持っている。
片や僕は、夢もなく、目標もなく、実力もなく、何も勝ち取ることは出来ず、ただただ講義を受けつづけているだけである。そこには、一切の希望もない。ただ、生きているだけの寂しい自分。
ほたるの演奏する悲愴は、いつしか第2楽章へと移りゆく。
あれからもう3年の月日がたっていた。あの、むせ返るような夏。ほたると僕が、離れ離れになってから。
今でも思い出せる。波打つ音、蝉の声。
そして、彼女の最後の顔。
あれからもう、3年。僕は何も変われない。あのころと同じ、漠然とした不安感にさいなまれつつ、今を生きる。
第2楽章から第3楽章へ。まもなくほたるの演奏は終演となる。
『白河ほたるさんでした。盛大な拍手をお願いします』
演奏が終わり、彼女は舞台の中央に進み出て深く礼をする。
そして、盛大な拍手。
拍手。
拍手。
歓声。
歓声
湧き上がる歓声。
鳴り止まないこの二つの音に、彼女は答えつづけるかのごとく、いつまでも深く身体をかがめていた。そんな会場を、最後列から僕はじっと見つめていた。
中央のほたるをじっと見つめていた。
やがて、ようやく拍手も歓声もとまり、彼女は頭を上げる。その時、僕と視線が合った、ような気がした。
気のせいだろう。
もう、3年。何も出来なかったあのときと何ら変わりのない僕に、彼女が振り向いてくれるはずがない。
そして僕は、静かに会場から出た。
東京の夏は、暑い。会場から一歩出ただけで、汗が滴り落ちるのを感じる。ただ暑さに閉口しながら、僕は帰宅のために、東京駅へと向かっていた。
ガード沿いに、ゆっくりと歩いていく。
一歩、一歩。
また一歩。
ただ、先の演奏と、3年前の演奏だけをかみ締めながら、歩いていく。
そんな、変われない僕。僕は結局、まだ……
その時だった。
「健ちゃ~ん!」
後ろから声が聞こえてきた。
あの時と変わらない、あれから変わらない、僕を呼ぶ声。
どんなに聞きたくても聞くことの出来なかった声。
でも僕には、聞く資格もなかった声。
なのにその声を、確かに僕の耳は聞き取っていた。
ありえない。
さっき終わったばかりなのに。
でも。
でも。
僕はゆっくりと振り返る。
そこには、ほたるがいた。
演奏していたときと同じ、いわゆる正装。
そんな走りにくい格好で走ってきたのだろうか?
肩で息をしていた。
「そんな……どうして……」
僕がようやくいえたのはそれだけだった。
目の前にはほたる。今や、日本を代表するピアニスト、白河ほたる。
そして、かつての恋人。
もう僕とは、かけ離れた人物。
なのに。なのに君は……
「……健ちゃん?」
心配そうな目で僕を覗き込む。かつてと同じように。
「どうしたの?黙り込んじゃって……」
心配そうな口調で僕に話し掛ける。かつてと同じように。
「どうして……もう君はほ……ほたるは、僕なんかのもとにいちゃいけないはずだろ……?」
うめくように僕は告げる。偽りなのか本当なのか、複雑な感情が入り混じった言葉。そばにいてほしいけど、もうそれは……
「……」
やはり複雑な表情で、ほたるは僕を見つめる。
「ねえ、健ちゃん、これから時間ある?」
しばらくして、ほたるはそう言った。
「え……?あるけど……」
「じゃあ、来て」
それ以来無言で、僕の手を引っ張るほたる。そして僕らはあの場所へと向かう。
3年前と同じように。3年前のあの場所に。
ついた先は浜咲学園音楽室。ほたるの好きなグランドピアノが置かれている場所。
警備員に短く用件を告げ、部屋の中へと入る。
あの時と変わらない教室。ピアノ。
ほたるは静かにピアノの鍵盤に向かう。
ポロン……
綺麗な音。澄んだ音。
「やっぱり、このピアノの音が、一番好き……」
どこか感慨深げに呟く彼女。そして僕のほうに向き直る。
「では、弾きます。白河ほたるで、ベートーヴェン・ピアノソナタ第8番・悲愴」
そして、ついさっき大観衆の中ほたるが弾いた悲愴が、再び音楽室の中で流れ出した。
……静かに時は流れる。
悲愴のあの調べの中を、僕は漂う。
ほたるの奏でるメロディーは、あの時と変わらない心地よさ。さっきの演奏よりも、何か違う、ほたるらしいほたるのピアノ。あの時と同じ距離。すぐそばにほたるがいて、そして演奏してくれている。
やがて、ピアノは音を立てなくなる。ほたるの指は、演奏の途中で止まる。
「ほたる……?」
「ねえ、健ちゃん。ほたるね、なぜだかわからないけど、有名になっちゃって、もてはやされて、でもね、そんなのどうだっていいんだ。ほたるはね……」
振り向くほたる。瞳には涙。
「健ちゃんのそばでずっとピアノを弾いていたいんだよ……」
……その言葉でふと思った。
別に変われなくたっていい。あの時のままでいいんだ。
例え、僕が今どれだけ乾いていたとしても、彼女のそばで微笑みつづけていていけるなら、支えになってあげられるなら……
ほたるのそばにいたい。
そう思った。
あの時よりも、もっと、もっと。強く。
「僕も、ほたるのそばでずっとほたるの弾くピアノを聞きつづけたいよ」
「……うん」
そして、演奏は再開する。
悲愴の調べは、今、再開を、再出発をめでる歓喜の歌へ。
音楽室に響く、そのメロディーは、僕たちを祝福していた。