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一次/三度目の奇跡

-冬-


 あの時は雪が降っていた。
 窓の外に見える白い雪。
 白い砂へと消えてゆく雪。
 打ち寄せる波の音とともに。
 雪の降る音、というのも確かに聞こえていた。

 深々と降る雪。
 静の音。

 そして僕の手の中の微かな命の鼓動。

 トクン、トクン。

 生の音。
 動の音。
 2つの音の旋律。

「雪……見れたね」
「うん」

 苦しそうな吐息とともに、彼女は小さく呟き。
 僕も静かにそれに答える。
 徐々に力強くなる鼓動。

 ドクッ、ドクッ。

 僕を握り返す手にも、少しだが力が入る。

「私……まだ生きれるよ」
「うん」

 二言しか答えられない。
 それ以上何かを言おうとすれば、涙が出てきそうで。

「……これが私にくれた2つ目の奇跡だね」

 顔にも戻ってゆく生気。
 笑顔。

「……だね」

 僕もまた笑顔。
 きっと泣く寸前の笑顔。

「もう一回……見れるかなあ」
「うん、見れるよ、絶対」

 彼女はそれを2つ目の奇跡と言っていた。
 去年の冬、雪の降る日のことだった。


-夏-


『太平洋上で発生した台風6号は現在、沖縄本島の東300kmの地点を西北西に……』

 テレビのアナウンサーが刻々と伝える台風情報。このあたりは関係なさそうだ。

「台風……来るの?」
「こっちには来ないと思うよ」
「そっか……」
「テレビ見る?」
「うん」

 そして僕は彼女が身を起こすのを手伝う。

「ごめんね、いつも手伝ってもらって」
「謝ることはないよ。僕だって自分の意志でやってるんだし」
「……ありがとう」
「いえいえ」

 彼女は僕に笑顔を見せていた。
 去年のこの時期よりもずっと儚い笑顔を。

 春、彼女は再び倒れた。診断は「白血病」の再発。去年は奇跡的に回復したが、実際はこの恐ろしい病気は確実に彼女の身体を蝕んでいた。
 余命6ヶ月。3月終わりに医者はそう宣告した。
 桜はまだ5分咲きだった。

「今日も暑そうだね……」

 病室の窓から見える砂浜には、大勢の人・人・人。

『依然として強い勢力を保っており……』

 お昼のニュースは台風情報を伝え続けている。やはりこの辺りは関係なさそうだった。波は以前として静かに打ち寄せている。

「暑そうだね、じゃなくて暑いんだって……」
「だろうね」
「いや、だから……」

 何気ない会話。何気ない時間。
 刻一刻と迫る時間。

「1回くらいはこの海で泳ぎたかった……かな?」

 僕は何も答えられなかった。
 彼女も、僕も。もう時間がないことを知っているから。



 翌日。僕は彼女のもとを尋ねる。

「ありがとう」

 彼女が僕の来訪時に必ずいう言葉。

「そっか……もう学校も午前日課なんだ」
「うん」

 正午に制服姿だったからそう言ったのだろう。その時、僕はふと先ほどの出来事を思い出した。



「なあ、お前さ……」

 放課後。友人の一人が僕に声をかける。

「まだあの子と付き合ってるわけ?」
「そうだけど……?」
「気をつけろよ」
「?」
「人は前を向かなきゃならないんだから」
「な、何?」
「できるか?その時には」
「だから……」
「3度目なんか期待できないんだから」
「っ……!」
「そんだけ。じゃあな」



 あいつの言いたい事はわかっている。それに……

「3度目の奇跡……」
「どうしたの?」
「あ、いや……」

 沈黙。
 彼女に内心が伝わってしまったのだろうか?

『台風は現在、足摺岬の南300kmを北に……』

 昨日と同じく流れる無機質なニュース。台風のようなどんよりとした雰囲気。

「あと、2ヶ月くらいだもんね」
「!?」
「もうちょっと……もうちょっと生きていたいけど……」

 彼女の頬を伝う一筋の涙。

「もう2回も奇跡を起こしてくれたんだもん。これ以上は願っちゃダメだよ……」

 そして無理な笑顔。

「1回目は将君と会えたこと、2回目はあの時に一緒に雪を見れたこと。もう、十分」

 僕は何も言えなかった。

「でも、できるなら、もう1つだけ願いが叶うなら……」

 一瞬の間。
 よみがえる過去。

 冬。
 白い雪。

「もう1度だけ、もう1度だけ一緒に雪を見たいよ……」

 あの時と同じ泣き笑いのはずなのに、僕は無力感を感じずにはいられない。
 運命という悪戯にもてあそばれた彼女。

 僕は、何ができる?
 運命に逆らって何ができる?

 彼女に何をしてあげられる?

 それは、祈ること、そして。

「あ……」

 抱きしめてあげることだけ。ベッドの上に今にも崩れそうな彼女は、ちゃんと温もりを持っている。

「大丈夫、きっと叶うよ。きっと」

「……うん」

 夏。打ち寄せる波はまだ静かだった。



 今日もまた、僕は彼女のもとへと向かう。学校を出る時、昨日と同じように友人が僕に声をかけていた。

「また、行くのか?」
「うん、それが僕に出来る全てだから」
「そうか、強いな、お前は」
「……?」
「いや、気にするな。悪かったな、あんなこと言って」
「いいよ、そんな謝らなくても」
「そうか……じゃあな」

 そういって去っていった彼の顔には、どこか淋しさがあらわれていた。



 病室の中。
 彼女はいつもと同じようにベッドの上に横になっている。テレビから聞こえるニュースは、相も変わらず台風情報。

『台風は予想よりも進路を東に取り、明日の朝には関東地方に……』

「台風くるみたいだね」
「そうだね」

 気のせいか、窓の向こうの波もいつもよりか荒いように見える。風も少し強い。遠くに見える雲もまた、流れは速い。
 僕はそっと荷物を置き、机の上のリンゴとナイフを手にとる。

「ごめんね、いつも……」

「ううん、いいよこれくらい」

 するするとリンゴの皮をむいていく。この皮がどれだけ長いかに、微かな望みが見えそうで。そう思うと自然に手が緊張する。

「あ……」

 半分くらいであっさり途切れる。僕は何となく悲しくなった。



 いつの間にか夕方となっていた。彼女は今、浅い眠りについている。話すだけでも体力が奪われるのだろう。先ほどの笑顔も、疲れ果てていた。
 手は僕の手を握ったまま。
 僕はやることもなく、彼女の横に座っている。

 彼女の顔。一年前と比べ、頬の肉は削げ落ちている。空いている左手で、そっとその頬に触れる。

 温かい。
 生きている。

 その事実が僕を安心させる。

「ん……」
「あ、ごめん……起しちゃった?」
「うん、大丈夫」

 そして、彼女はふっと笑う。
 今という時を僕は確かに彼女と過ごしている。
 残りわずかな時を。



 今日もまた、僕は病室を訪れていた。外には夕焼けが広がっていく。

「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「うん、いつもありがとう」

 外は風が強くなっていた。台風はかなり接近しているのかもしれない。だがあの厚い雨雲は見えない。風台風なのかもしれない。
 ……そんなことはどうでもよかった。
 明日は彼女と何を話そうか?
 考えることはそれだけだった。



 ガタガタガタッ!

 雨戸は激しい音を立てる。リビングにあるテレビからは、ひっきりなしに台風情報。

『大型で強い台風6号は現在、御前崎付近に上陸したものと思われ、非常にゆっくりと北東に進んでいます。中心の気圧は……』

 この辺りを通過するのは夜半過ぎだろうか? 少しでもそんなことを考えたその瞬間。

 プルルルル……
 電話が鳴り響く。

「もしもし?」
「もしもし、ああ、将君か!?」
「は、はい、そうですが……」
「娘の……瑞希の容態が急変したんだ!」
「!?」
「と、とにかく急いで病院に来てくれ!」

 ガタッ!
 プーッ、プーッ、プーッ……

 手からこぼれ落ちた受話器から聞こえる音。一つの音と重なり合う。

 プーッ、プーッ、プーッ……
 ピーッ、ピーッ、ピーッ……

「行かないと……!」



 外はすでに暴風の渦だった。

「お、おじさん!」
「!? 将君か!」
「い、今瑞希はどうなんですか!?」
「ICUの中だ……」

 そして暗い表情。何を意味するのか、全てが伝わる。時間の問題、ということだった。

「そうですか……」
「すまない。こんな嵐の中に……」
「いえ、これが僕に出来る全てですから……」

 窓ガラスに風があたる音のみが、耳に届く。

-3度目の奇跡-

 それはもう願えないもの。でもできるなら……

-もう一度、一緒に雪が見たいよ-

 リフレイン。ささやかな彼女の願い。それすらも……

「叶わないのか……」

 バッ!
 ICUから一人の医師が出てくる。

「せ、先生!娘は……!?」
「……」

 医師は何も言わず首を横に振るだけ。

「そんな……」
「もって、あと一日です」
「っ!?」
「彼女は一般の……いつもの病室に移します。そのほうがいいでしょう」

 そして赤いランプが消える。



 いつもの病室の中。小さな灯りが照らす彼女の顔。激しく揺れ、音を立てる窓ガラス。時刻は、午後10時過ぎ。
 そっと彼女の手を握る。

 温かい。が、反応はない。
 ICUを出てからもずっと、目を覚まさない。握った手の温もりだけが、生きている。

「将君、すまない……妻を呼んでくるから」
「わかりました」

 彼女の父親が静かに、しかし急いで病室をあとにする。彼女の母親もまた、身体が弱い。今もおそらく家で横になっていたのだろう。が、事態が事態なだけに、急いで呼びに向かったのだろう。



「しょう……くん……?」
「瑞希……」

 小一時間ほどして、彼女は目を覚ました。

「あ……れ……?」
「おじさんは今、おばさんを呼びに行ってる」
「そ……う……」

 か細い声。たった一言でも、確実に生きる力を奪っている。
 彼女自身も知っているのだろう。だけど、それでも彼女は僕に必死に、懸命に話す。
 残された時間を指折り数えながら。

 他愛ない話。
 取り留めのない話。

 これが残されたものだった。

 しばらくして、彼女は再び昏睡状態となる。
 僕はただ手を握るだけ。優しく、小さなその手を握るだけ。

 窓ガラスの立てる音が激しさを増してゆく。流れる時間もまた、闇の彼方へ。
 握った手から、少しずつ、少しずつ力が抜けていく。
 僕はただ祈りを捧げるだけ。もう少し、もう少しでいいから。

 生きてくれ。
 そう祈るだけ。

「3度目の奇跡なんて……」



 次に彼女が目を覚ましたのは、午前2時ごろだった。僕も、おじさんも、そしておばさんも、全員がじっと見守っていた。僕たちを見て、彼女はふっと笑った。
 そして再び目を閉じた。

 時は無情。窓ガラスの音は弱まっていく。
 今のは最後じゃないよな? 最後じゃないって、

「言ってくれよ……!」

 無数の涙が流れていた。



 四時半を過ぎた頃だった。再び彼女は苦しみ出す。
 ……恐らく最後の苦しみ。

 声にならない悲鳴。

「瑞希っ!!」

 僕は相も変わらず手を強く握って、その名を呼ぶだけ。

「はぁっ、はぁっ……」
「瑞希……」

 僕の呼びかけに、彼女はうっすらと目を開ける。その様子に、僕は謝らずにはいられなかった。

「ごめん……」

 かすかに首を傾げる彼女。苦しそうな、弱々しい吐息が聞こえる。

「叶えられそうにないんだ……」

 その言葉で、彼女は何のことだか理解したようだった。
 じっと見つめる視線。そして。

「そうだ、ね……」

 そういって彼女は笑った。それに答えるために、僕も引きつりながら笑顔を作った。
 一瞬の安らぎ。
 そして。

 静かに彼女は目を閉じた。

 いつの間にか窓ガラスからはうるさい音が聞こえなくなっていた。

「脳波低下!」
「脈拍も低下しています!」

 暗い病室内を、看護婦や医師の声が飛びかう。
 僕も、おじさんも、おばさんも、それを無言で見守る。

 ……終わりだとわかっていた。先程の一コマで終わりだと、誰もがわかっていた。
 心電図の無機質な音の間隔が伸びていく。

 ピッピッ……
 ピーッピーッ……
 ピーーッ、ピーーッ……

 ピー……

「残念ですが……」

 三流ドラマのようなお決まりの言葉。
 病室内に、おじさんとおばさんの嗚咽が響く。
 僕は不思議と泣かなかった。
 いや、泣きたくなかった。
 泣けば、彼女といた時間がただただ悲しいものにしか思えないと感じた。
 そっと彼女の白い手に触れる。
 まだ温もりが残っていた。

「雪、見たかったよな……」

 場違いなセリフを動かない彼女にささやく。彼女は答えない。わかっていてもそう言わずにはいられなかった。いたたまれなくなり、僕はそっと立って、音のしない窓ガラスへと向かう。

 外が見たかった。
 外の空気を目一杯吸い込んで、口から口へ、彼女に吹き込みたかった。

 僕は暗い病室の窓を開けた。



「なっ!!?」

 信じられなかった。
 外に広がっていた風景は、いつものこの病室から見える海岸の風景ではなかった。

『っ……!?』

 病室内からも息を呑む音がいくつも重なる。

「雪……?」

 それは雪だった。
 白い白い、雪だった。
 彼女が見たがっていた、白い白い雪だった。

 夏に降る、気まぐれな雪だった。

 思わず僕は、動かない彼女へと駆け寄る。

「雪だ! 雪だって!!」

 彼女の身体を揺り動かす。ふと思いつき、僕は彼女の身体に取り付けられていた、心電図の計測器やら脳波測定器やらの線をはずしていく。

「将君!?一体!?」

 そのおじさんの言葉には答えず、僕は今ので乱れた彼女の服をちゃんと着せ、そしてかすかに温もりの残るその身体を背に担ぎ、病室を飛び出した。後ろから医師の困惑しつつも制止しようとする声が聞こえたが、それも無視して僕はひたすらまだ暗い病院の中を走っていった。

「はぁっ、はぁっ」

 僕が向かったのは一階玄関だった。そこには屋根がついていて、目の前に海岸通りがある。そしてその奥に海岸が見える。

「はぁっ、はぁっ……ふぅ」

 呼吸を整えて、僕は彼女を階段に座らせ、僕もその後ろに座って抱きかかえるように支える。

「ほら、雪だよ、瑞希……」

 右腕を彼女の身体の前に回して、耳元にそうささやく。左腕は、彼女の額へ。

「あんなに一緒に見たがってた、雪」

 この雪は何なんだろう? そんなことは考えず、ただ目の前にある光景と彼女を支えることにのみ集中する。

「ちょっと遅かったけど……」

 自分でそう言って、何だか馬鹿に思えてくる。けどそれでよかった。

「ほら、約束の、」



「ゆ、き……」



 言葉が聞こえた。聞きなれた声だった。

「雪・・・…」

 その声は同じ言葉を繰り返す。
 僕はもう驚かなかった。
 何が起きても平気だった。

「3度目の奇跡、だね……」
「ああ……!」

 体を通して伝わってくる動き出した鼓動。手にかかる熱い吐息。再び点火された命の灯火。
 よくわからない。何が起きたのかは。

 でも。

「瑞希っ!」

 再び生気が戻ったその小さな身体を、僕は強く抱きしめていた。


-再び、冬-


 雪が降り、一面は白化粧に包まれる。目の前にある墓石もまた、薄く白い雪の中に佇んでいた。

 彼女は結局、あのあとすぐに再び息を引き取った。さらに1度目の時よりも、安らかな寝顔だった。
 医師は信じられないような顔をしていた。おじさんとおばさんは、悲痛な表情の中、わずかにうれしさを見せていた。彼女の3つ目の願いがかなったからだった。
 僕は彼女を抱えて病室に戻り、彼女が再び息を引き取って安らかな寝顔を見せた時にようやく涙が流れた。

 夜が明けて、あの雪の正体が白砂だとわかった。直前の台風の風で上空に舞い上がった砂が、まるで雪のようにこの街に降り注いだのだった。地中海では、魚が降ってくることがあるらしいが、ここでは白砂が降ったのだった。

 3日前の情報では来ないはずだった台風。
 降らなかった雨と巻き上がった白砂。
 わずかな時間蘇生した彼女。

 そして、夏に降る雪。

 僕と彼女は、重なり合った奇跡の中で3度目の奇跡にめぐり合ったのだった。



 あの後、友人が僕にこんな問いかけをしてきた。

「お前は、彼女と出会えて、悲しいと思うか?」

 僕はすぐに答えた。

「そんなことはないよ。瑞希といた時間が、本当にかけがえの無いものだったから。僕には、とても大切な時間だったから。彼女が今いないことは本当に悲しいけど、彼女と出会えたことは、本当に幸せなことだったよ」
「そうか……」

 少しだけ納得したような顔をして友人は話してくれた。

「俺もさ、昔大事な人を亡くしてるんだよ。今まで、ずっとそのことに捕らわれて、今でも出会わなければ、って思ってて。だけどこれって逃げなんだよな。お前たち見てるとそう思えるよ」

 それから、彼はやはり少しだけ笑った。

「俺も、お前みたいに強くならないと。あいつは、本当に大事な人だったから」

 僕は彼に対して、そうだね、と勇気付けるように言った。



 今また、彼女の墓の上に、白い雪が舞い降りていく。

『ほら、また一緒に雪が見れたね!』

 ふと、そんな声が聞こえたような気がした。
 彼女もきっと、この雪を見ている。そう思うと、嬉しさが少しだけ、こみ上げてきた。