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MemoriesOff1・2/After

「もう1年、かあ……」

 窓の外に目をやると、ウィーンの街が夏の日差しを受けて煌いていた。日本の夏とはまた違う穏やかな夏を過ごすのも、これで2度目。最も1度目なんて本当に短くて、すぐに秋に入ってしまったけど。
 私、白河ほたるが音楽の都に留学してきて、まもなく1年。ようやく日常会話でドイツ語を不自由なく扱えるようになってきた。まだお互いに会話がかみ合ってない面もあるけど、意思疎通は図れていると思う。多分。
 肝心の音楽―私の楽器はピアノである―はというと、周囲の友人や先生が言うには、かなり上達したとのこと。自分のことは自身では中々感じ取れないものだが、実際、クラスの小コンテストで最近は度々1位になることから、やはりうまくなっているのだろう。
 この音楽留学で得ている物は、大きい。

 だけど。

 机の脇に置いてある小さな鞄(こちらに来るときに、お姉ちゃんから貰った愛用の鞄である)に手を伸ばし、中からパスケースを取り出す。そこには、一枚の写真を入れてある。写っているのは私と、少し照れたような笑顔を浮かべている青年。写真の中で私は、青年の腕に抱きついて、嬉しそうな顔をしている。

まだ色あせる気配を見せないその写真の中の世界を、幸せと言えないのなら、一体私は何を幸せと言えばいいのだろう?
 言い換えれば、あの時の私は確かに幸せだったと自信を持っていえる。

 それが、私の失ったモノ。

 別にウィーン音楽留学と今の状況との間に強いつながりがあるわけではない。むしろ自分の希望と恋愛とを一緒に考えることがある意味馬鹿げている。
 でも、少なくとも留学の話が出たことが、幸せの綻びの一つのキッカケにはなっている。

 なっている、そう思いたい。そうでないとコワレそうだから。あの時から変わらず、私の心は弱いから。


 彼は結局、私の親友の元に向かい、私はひとりぼっちになった。あの日以来、一切の連絡を取っていないから確実ではないが、二人の性格から察するにおそらく今も彼と親友の関係は続いているだろう。
 そのことを思うと、胸が締め付けられる。
 未だに引きずっている。
 未だに忘れられない。
 私は、弱い。
 私は……



 プルルルル……

 電話の電子音が私を思考の渦から引き戻す。時計の針は16時を指していた。
 日本とウィーンとの時差は7時間。向こうは大体朝の9時前後であろう。受話器を手に取り耳を当てれば、私の予想通りの声が聞こえてきた。

『もしもし、ほたる??』
「うん、おはよう、お姉ちゃん」

 私の姉、静流お姉ちゃんは毎週一回日曜日、日本時間午前9時に必ず電話をかけてくる。本人は毎日かけたいらしいのだが、生憎と諸事情―主に電話代であるが―により週一回だけはかけるようにしているらしい。実にお姉ちゃんらしい。

『おはよう、といってもそっちはもう夕方に近いでしょ?』
「お姉ちゃんに合わせたんだよ~」
『わかってるわよ。ふふふ……』

 微笑をたたえる姿が浮かぶ。

『ほたる、ちゃんと用意してる?明後日1年ぶりに日本に帰ってくるんだから』
「もう、お姉ちゃんは心配性なんだから!私だってちゃんと用意してるよ!」

 そう、明後日から一週間日本に帰国、滞在する予定なのだ。こちらに来てからは毎日レッスンでまとまった時間がなかなか取れなかったが、1年の課程を修了し長期休暇に入ってることもあって帰国することになった。
 1年という歳月は短いようで長いようで、私の覚えている街並がどう変わっているのか、あるいは記憶の中の友人達は今どう過ごしているのだろうか、大変楽しみである。

 一部の記憶を除いて。

『当日はお姉ちゃんが成田まで車で迎えに行くから、ちゃんと到着ゲートのところで待っててね。あと、何かあったら連絡すること。いい?』
「うん、大丈夫!」
『じゃあ明後日、1年ぶりに会うのを楽しみにしてるわ』
「私も。じゃあね、お姉ちゃん」

 静かに受話器を置く。

 そう、明後日は帰国。
それは、楽しみなこと。

 だけどそこは。
 悲しい想い出も詰まった場所。

 この帰国で、私は決着をつけなければならない。
 自身に、過去に。

 ふと机の上においてあった写真の中の彼が、私を見つめているような錯覚にとらわれた。

 笑顔が、悲哀を表してるかのようだった。

 



 ウィーンから経由地フランクフルトを経て、成田までおよそ 時間。
 長時間フライトのおかげで、私は帰国してやらなければならないことを決断した。

 健ちゃんと、ととちゃんに会おう。会って、話をしよう。
 別に今更取り戻すとか、そういった泥臭いものではなくて、友人として、親友として、これからも二人と接していきたいから、会って話をしたいのだ。
 そうすれば、きっと大丈夫。
 あの時最後は喧嘩別れに終わっちゃったけど、新しい関係を築けるはず。
 そしてそれが、悲しい想い出を、大事な想い出に変えることにつながるはず。

 不安な要素は多くても、私は乗り越えなければならない……

 到着ゲートをくぐったときの私は、こんな思いで溢れていた。

 ゲートを通過し、そばの待ち合わせ広場みたいな場所でしばらく待つ。

 ……おかしい。
 いつもお姉ちゃんはこういった待ち合わせには早く到着しているのに。
 ひょっとしたら道に迷っているのかな。

 不意に、案内放送が空港内に流れる。

『お客様のお呼び出しを申し上げます。ウィーンよりお越しの白河ほたる様、ウィーンよりお越しの白河ほたる様、いらっしゃいましたら、至急近くのサービスカウンターまでお越しください。繰り返しお客様のお呼び出しを……』

 走り出したために、途中から放送が耳に届かなくなる。私は急いでサービスカウンターらしきところへ向かった。

「あ、あの!」

 重い荷物を持ちながら駆け抜けたために、息も絶え絶えに係員に話しかける。

「先程の案内放送で呼び出された白河ほたるですけど!」
「白河様ですね?お母様よりお電話が入っております」

 電話……お姉ちゃんに何か用事が出来たために迎えにこられなくなったのだろうか?
 そして、私は係員から渡された受話器からの第一声に、裏切られた。

『ほたる!?お姉ちゃんが、お姉ちゃんが事故に……!!』
「……え??」
『ほたるを迎えに行く途中に、事故に巻き込まれたのよ!』

 以降の母の声は、母も私も錯乱しているためかほとんど聞き取ることは出来なかった。
 辛うじて聞き取れたのは千羽谷総合病院という言葉と、死、という表現だけ。

 全ての音が遠ざかり、自ら脈打つ音だけが鼓膜に伝わる。
 意識すらも透明になり、しかし視界に存在する全てのモノが鮮明に映し出される。
 不思議なことに、私は集中していた。
 そしてその集中力は、行動力の源となる。

「……澄空、総合病院……」

 次の瞬間、係員に礼をするのも忘れて私はJRの改札へと走り出していた。



 発車寸前だった成田エクスプレスに乗り込み、終点で乗り換えて到着した澄空駅。その総合病院は、駅の北口を出てすぐの場所にある。
 駅員のいる改札にて乗車券と特急券を投げるように渡し、ロータリーの人ごみを掻き分けて病院へ向かう。
 病院の入り口に、母の姿はなかった。
 仕方なしに、近くの看護士に訪ねた。

「あの、ここに白河静流という人が救急車で運ばれてきませんでしたか?」

 自分の言葉なのに、どこか別の世界の出来事のようで実感がこもっていなかった。

 看護士は最初、私の格好―成田から来た旅行帰りの客そのものの姿である―に驚いていた様子だが、姉の名前を聞いた瞬間に沈痛な面持ちへと変化した。
 こちらです、と言葉少なに私を誘導していく。
 病院の奥へ、奥へ。次第に私の足取りも重くなる。
 そして、ある種の覚悟と嫌な予感も。

 歩くことしばし。場所は2階。集中治療室。

 部屋の中のお姉ちゃんは、無数の管につながれていた。

 ドサッ、と、まさに映画の悲劇の主人公のように荷物が手から滑り落ち、床へと軟着陸した。
 それとは別に、部屋の中から嗚咽に咽ぶ声が幾つか重なって響いてくる。

 四肢から力が抜け、私は床にへたり込んだ。
 恐らく私との再会を最も楽しみにしていたであろう、私のたった一人の姉が、死に直面している。

 現実と認識することが出来なかった。

 そんな宙ぶらりんの私の意識に、さらに衝撃の言葉が遠くから飛び込んできた。
 それは、少し離れた場所で私を見ながら話し合っている看護士達の会話の中からだった。

「かわいそうにねえ……あの子」
「お友達が同じ事故で亡くなってしまうなんて……」

 お友達?同じ事故?死?

 虚空の世界を彷徨う私に更なる疑問符が襲う。

 きーっ。

 目の前の扉が錆付いた音を立てて開かれていく。
 へたり込んでいる私の視界に、男の人の脚が一組、浮かび上がってきた。

「……ほ、ほたる……」

 上から降り注いできた声、そして足から上に視線を上げて確認したその顔。
 声と足の主は、かつての私の恋人、伊波健その人だった。

「け、健ちゃん……?」

 1年ぶりに見た健ちゃんの瞳は、泣き腫らしたかのように真紅に染まっていた。
 私の事を確認した彼は、その場に崩れ落ち、一言二言、漏らした。

「僕の、せいだ。こうやって僕はまた、ほたるから奪っていくんだ」

 そして、私の意識は深淵へと沈んだ。



 会場からは、人のすすり泣く声と感情の篭っていない読経だけが外へと漏れ出ていた。

 私はというと、ホールの片隅で季節外れの冷たさを保つパイプ椅子に腰掛けながら、ぼんやりとその様子を眺めていた。

 既に、涙は枯れてしまっている。
 ホール正面に掲げられた一枚の大きな写真を目にしても、何も思えない感じない。

 思考回路も麻痺しているみたいだ。

 そんな固まった私の頭の中を、病院で意識が混濁するまでのワンシーンがひたすら駆け巡る。



「僕の、せいだ。こうやって僕はまた、ほたるから奪っていくんだ」
「け、健ちゃ……」
「僕がね、車を運転していたんだ。静流さんに誘われて、折角だから一緒にって。そりゃ色々考えるところはあったさ。でも僕はとと、静流さんと一緒に行くことにした。
 出てすぐだった。信号無視のスポーツカーが横から突っ込んできたんだよ。でも、僕はかわせず、静流さんの車の側面が大破。
 ととは、ほぼ即死だったと思うよ。ハンドルの上に伏せていた僕が揺れる頭を起こして左を確認したときには、突っ込まれて滅茶苦茶になった車体に完全に挟まれて、血まみれだったんだから。相手がスポーツカーだったから車高が低くて、ぶつかった場所も低いところで、彼女の身体は駄目でも顔だけは綺麗にそのまま残ってたって言うのが、本当に不幸中の幸いだよ、本当に。ははは……」

 力のない、というよりは感情の欠落した健ちゃんの笑い。
 彼は、完全に自分のせいだと思っていた。
 その精神的抑圧が、彼の持っていた素直な、豊かな感情表現を奪い去ってしまった。

 彼の干からびた笑いを見て、慄いた。
 話を聞いて、そのシーンを想像して、恐怖した。
 親友が死んだという事実に打ちひしがれた。
 姉が生死をさ迷っている現実に困惑した。

 そして、私の意識は未だ例の笑いを浮かべる健ちゃんの前で、混沌へと引きずり込まれた。



 健ちゃんが集中治療室から現れ、そして私が崩れ落ちるまでのリピートを数回。
 気付けば、葬式は終盤に差し掛かっていた。

 ふと、今更になって健ちゃんが最前列の椅子に腰掛けていることに気付く。
 彼はやはり、光の篭らない虚ろな眼で前を見つめていた。
 途中、私の視線に気付いたのかこちらの方に振り向いたが、一瞬たりとも表情を変えず、すぐに前を見つめる姿勢に戻った。

 私も彼から視線をはずし、ぼんやりと眺める格好に変えた。

 そして、出棺の時を迎える。
 人の死というものが、こんなにも重いものだというのが改めて感じ取られた。
 華奢な身体つきのととちゃんも、やはり重たかった。

 健ちゃんは、私の反対側にいた。
 相変わらず、無表情だった。



 私も、自分が涙一つ流さず無表情を貫いていたことに気付いたのは、煙が空に昇っているときだった。
 そんな自分に対して涙した。



 ぽちゃん…

 ぽちゃん……

 海水浴シーズンを過ぎて人のまばらな砂浜。
 葬式から3日。
 私が足を運んだその場所には、健ちゃんが石を投げている姿があった。

 私はというと、日に日に悲しみだけがこみ上げてくるようになった。帰国直後―つまりはお姉ちゃんと、ととちゃんの事故に出くわした時―はあまりにも突然すぎる出来事に、私とは一切関係ないことなんだと思考を拒絶していたのだと思う。だけど、時間が経過するにつれて、親友の死、そして未だ姉が意識不明というものがようやく現実なんだと認識できるようになり、そして、この悲壮感。

 少しでも気を紛らわせるために、私は一年前はよく来ていた海岸へと足を運んでいた。

 そして見つけた光景が、この光景。
 私はそっと、健ちゃんの元に歩み寄っていく。

 ぽちゃん……

 ぽちゃん……

「もう、ととに会えないんだよね」

 健ちゃんは、私が声をかけるよりも早く、まるで私に話しかけるというよりも目の前の海に語りかけるようにつぶやいた。

「健ちゃん……」

 それは、実に不思議な感情だった。いや、様々な思いが移り変わり、交じり合って出来た複合体なのかもしれない。
 彼と別れたことによる喪失感。
 親友と付き合いだしたという憎悪。
 それでもどこかで思い続けてしまう満たされない気持ち。
 生死を彷徨う姉への願い。
 恋人を失ってしまった彼への同情。

「僕は、僕はどうすればいいんだ……?」
「じ、事故は健ちゃんのせいじゃないから……」
「そうじゃないんだ」

 私のほうに向きを正して、例の薄っぺらな表情を見せながら健ちゃんは言う。

「僕は、あの時ほたるじゃなくてととを選んだ」

 心の片隅が、ちくりと痛む。

「だけど、結局それが、二人の間に深い溝を掘ってしまったんだ。そしてほたるがウィーンにいってしまって、埋めることは出来なかった」
「……」

 私自身は、ととちゃんとの間にそれほど深い溝が出来たとは思っていなかった。一人の男性を取り合ったとはいえ、もともと親友同士である。これくらい、というほど簡単なことでもないが、それでも友情が消え去りはしない。
 だけどととちゃんにしてみれば違うだろう。なんていったって、形的には親友から恋人を奪ったのだから(もちろん私はそんな風には思っていない)。ひょっとすると、何かしらの罪悪感を覚えていたかもしれない。そしてそれを健ちゃんが聞いていれば、この意見になるのもうなずける。

 場面と意見が一致しないことを除いて。

 健ちゃんは続ける。

「だから、僕は二人をもう一度つなぎ合わせたかったんだ。だから、ほたるを迎えに行こうって言う静流さんの言葉に頷き、ととをつれて、空港まで行こうとしたんだ。何より、二人のために。だけど、事故で、静流さんは意識不明、ととは、死んでしまった」



 再び健ちゃんの手から石が投げられ、海面に小さな波紋を広げる。



「僕は、ほたるにどうすればいい?何をしてあげればいい?僕は、僕は、二人の仲を取り戻すことがほたるへのせめてもの罪滅ぼしだと思っていた僕は、何をすればいい?」

 私は、頭が打ちひしがれる思いがした。
 同時に、激しい怒りがこみ上げてきた。

「なんで!?なんでそんなこと健ちゃんは考えるの!!?それよりも、ととちゃん死んじゃったんだよ!!?私なんかよりととちゃんのことを考えてあげるべきなんじゃないの!?」
「で、でも僕」
「間違ってる。絶対健ちゃんが間違ってるよっ!!」

 気付けば私は駆け出していた。遥か後方、健ちゃんが無表情とは違う、悲しみと困惑に挟まれた顔を見せていたが、私はなおも走り、家へとたどり着いていた。



 日本滞在中に仮の部屋としてあてがわれた、元私の部屋。
 そこで私は、声を上げて泣いた。

 日本に帰国してから初めて、声を上げて泣いた。



 何もすることなく、姉の見舞いに行ってはその後ただただ部屋の中で時を過ごすこと幾日。
 帰国してやろうとしていたことの大半が失われてしまった今となっては、本当にすることがなかった。その上、自分でも表現しきれない激情が胸の中を渦巻いている。
 悲しみ。
 憎しみ。
 怒り。
 哀れみ。

 そして。

「あーもうっ!!」

 私は寝転がっていたベッドから立ち上がり、薄いカーディガンを身に纏って外へと飛び出した。



 かちゃっ。

 鍵を開け、室内へ。
 久しぶりのこの匂い。胸いっぱいに吸い込むだけで気持ちが幾分か休まる。

 母校・浜咲学園の音楽室、想い出がいっぱいつまったこの部屋を私は訪れていた。
 魔法のグランドピアノ。私がそう呼ぶピアノにそっと手を触れる。
 そして鍵盤へ指を這わせる。

 久しぶりに触れたこのピアノには、やはり魔性の力が宿っていた。

 しばしの間、『悲愴』を弾き続ける。
 初めは沈んでいた音が、やがて生気を取り戻し、音楽室の中を駆け巡る。
 同時に、自身に落ち着きが生まれるのもわかる。

 やはりこのピアノは魔法のピアノなんだ、そう確信したところで私は曲を中断し、ピアノの椅子から立ち上がる。そして。

「あ……」
「……」

 私の方をじっと見つめるその姿。健ちゃんだった。

「……何?」

 砂浜でのこともある。私は声色を落とし、冷たく簡潔に言葉を掛ける。
 そんな私の様子にお構いなしに、健ちゃんはこう告げた。

「ととの墓参りに行かない?」



 浜咲駅から5駅先、海沿いから少し陸地に入った閑静な駅で私たちは下車した。
 電車の中で終始無言だった状況は、駅からすぐそばの寺まで続く。

 交代でおまいりしようということになり、私は寺の入り口で待っていた。
 寺の境内は、既に秋を感じさせるものがあった。

「彼女に、話しかけて欲しい」

 戻ってきてすれ違いざまに健ちゃんが呟いたが、私はあえて無視した。

 ととちゃんの墓。目の前に立ち、一呼吸おいてからしゃがみ、手を合わせる。

 聞きたいことがたくさんあった。話したいこともたくさんあった。

 だけど、全部涙に流されてしまった。

 声を上げたいのをこらえつつ、必死に言葉をイメージで紡ぎ伝える。



 ―5分。

 ――10分。

 沈黙が時を刻む。

 最後に、ととちゃんは笑ったような気がした。
 望むはずもない悲しみの極地の親友との会話は、望んだ結果に終わった。



 二人して、また砂浜に来ていた。
 着いて浜辺から少し離れたコンクリート塀に座るなり、健ちゃんは

「ありがとう」

 こう言った。

 一瞬前回の浜辺での発言が脳裏をよぎるが、涙で頬を濡らした後の私は、冷静にその言葉を受け取ることが出来た。それには、少し時間が経過したことで、私の心にもほんの少し余裕が出来たからかもしれない。
 おそらくあの時の健ちゃんは、錯綜していたんだ。そんなときに私が現れて、抱いていたのかもしれない罪悪感とか何とかがごちゃ混ぜになっていて、それであのタイミングであんなことを言ったんだ。何を一番に想うべきかを間違えて。

「あの時はごめんなさい。健ちゃんを散々になじっちゃって」
「仕方ないよ。僕だって間違ってたと思うんだ。ととだけでなく、姉の静流さんまで危険な状態のほたるのことを考えずに、そして死んでしまった恋人に対して失礼だった」
「……」

 潮風が一陣、二人の間をすり抜けていく。
 ……初秋を思わせる寂しげな潮の香が微かに鼻先をくすぐる。

「でも、ほたるがととに話しかけてくれたから、少しは溝が埋められたと思う」
「……うん、いつまでもととちゃんは私の親友だよ」
「そう、よかった……」

 所々ごみが散乱しているとはいえ、この砂浜は綺麗な砂浜だ。
 砂の一粒一粒が煌き、星になる。さしずめ風紋は天の川だ。

「僕は、絶対に二人のことを忘れない。忘れないし、想いすらも胸に刻み付ける」
「うん」
「そして、悲しみさえもが想い出に変わるとき、僕は本当に彼女のことが好きだったんだってわかると思う」
「……うん」

 そうだね、健ちゃん。ととちゃんには悪いけど、やっぱり私は健ちゃんの事が好きだったんだから。だって、こんな風にととちゃんを思ってくれる健ちゃんがいて、それが凄く悲しく思えてしまう私がいるから。

 私は、日本に帰ってくるときの迷い、ととちゃんに言おうとしていた言葉、さっき眠りについたととちゃんに対して伝えた決心、それらを全て振り返り、そして。

 健ちゃんに軽く口付けをした。

「ほ、ほたる……?」

 困惑そのものの表情を浮かべる健ちゃんに対して、私は涙の後がひりひりする頬に少し力を込め、笑顔でこう言った。

「健ちゃんのことがずっと好きでした。でももうそれは、想い出に変わります」

 また、潮風が頬を撫でていった。
 やっぱり、ひりひりした。




 久しぶりに戻ってきたウィーンは、少し肌寒かった。マフラーが必要などというオーバーなことは言わないが、それでも長袖は必需品だと確信できる。

 出国寸前、静流お姉ちゃんは意識を取り戻した。
 取り戻して、その場にいた私に放った最初の一言が

『想い出はできた?』

なんて言葉ときたものだから、さすがにお姉ちゃんは私の事をよくわかっていると、容態とかそんなもの関係なしに思ってしまった。

 その後、母の知らせるところによると姉は奇跡的にも快復に向かっているという。次回帰国したときにはぜひ元気な姿を見たい。



 今回の帰国で、私はいろんなモノ、かけがえのないモノを失い、一つだけ大事なものを得た。
 失ったモノは二度と戻らない。だから、胸に刻み込み、存在したことを忘れない。
 大事なモノは二度と離さない。そして、常に私と共に存在する。



 失恋の後、親友を亡くした後、そして新たなる想い出を築いた後。
 私は一つ、強くなれた。


 ―想い出に変わる君と共に。