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kanon/それでも君を想い出すから

 春、というものがようやくこの街にやってきた。厳寒という言葉がまさに当てはまる、厳しく長い冬と別れを告げ、街は廻り廻ってやって来た季節との再開を喜ぶかの如く脈動感に包まれている。もっと南にある街なら既に春うららもいいところ、あるいは晩春と呼べるくらいにまで気候は変わっているのかもしれないが、北の地に根を下ろすこの街は、つい最近が春の始まりなのだ。

 春は誕生。
 夏は成長。
 秋は晩成。
 そして……冬は、衰退。

 全ての生あるモノと同じように一年の間にも栄枯盛衰が存在し、生命・街・その他数多くのモノは各季節の属性に従いつつ活動する。
 やってきた春は、誕生の季節。
 過ぎ去った冬は、衰退の季節。
 このサイクルのうち、冬以外の三季の部分に捕らわれないのは人間くらいなものだろう。年中いつでも発情期を向かえ、ついには『出来ちゃった婚』などというシロモノが流行るくらいである。そして何時如何なる時でも肥え、脳味噌も政治も腐敗していく。夏は緑が生い茂り、秋は紅に染まるというのにだ。
 他のモノたちとの共通点があるとすれば、それは必ずしも冬=衰退、というわけではないことだろうか。人だって何だって唐突に衰退期を向かえ、死という抽象性の極地とも言える場所へとたどり着く。その出来事に、冬もくそもない。

 何だって死ぬときは死ぬ。消えるときは消える。生命も、無機質も、記憶も。
 人間の記憶というものは当てにならないもので、脳内で留めようとしても細胞の劣化、あるいは些細な衝撃によって消えてしまうし、文字・映像といった媒体に頼ったところで媒体自身が消滅してしまう可能性がある。第一、媒体に頼ることが出来るケースというものは、ヒトの持つ記憶の中でどれくらい割合を占めるというのだろう。重要なところほど媒体を通して記憶することが難しいのだ。

 だから、俺の栞に関する記憶だって、その大半が脳内に存在してしまっている以上、いつかは消えてしまうのだろう。また、記憶そのものはある程度の機会存在し続けたとしても、時間の経過は記憶が持つ意味合いを奪い去ってしまう。時がたち、ある時ふと栞の笑顔を思い出してみたところで、きっと今の俺が抱く感情の一割にも満たない想いしか感じないのだ。

 そこまでわかっていて。
 ちょっと後ろに手を伸ばせば冬がまだそこにあって。
 冬は栞を俺たちから奪い去った季節で。
 栞を奪い去った冬がそこにある以上、記憶が消えるとか風化するとかどれだけ言ったところで。

 どんなに悲しくて、つらくても、それでも君を思い出すから。
 楽しかったら、君を想い出すから。


 始業式の日というものは、ある種のカーニバルである。まず授業がない。それだけで学生というものは気分が上々になるのだ。例え、その代償に狭い体育館に鮨詰めにされて暑いのか寒いのかよくわからない環境にて校長のめちゃくちゃ長い話を聞くとしてもだ。
 そして、始業式の日、といえばクラス変えである。朝、校門をくぐり生徒たちが真っ先に目指す掲示板。合格発表やら留年対象生徒発表やら、種々の発表に使われる掲示板には現在、新年度のクラス編成が張り出されている。我先にと人並みを掻い潜っていく北川のような猛者もいれば、名雪みたいに「どうなってるんだろうね~」と暢気に待つ者もいるし、俺や香里みたいに「馬鹿馬鹿しい、たかがクラス変えで」と斜に構える者もいる。
 と、いうわけで、現在俺ら三人は北川の報告待ちをしている。別に急いで知る必要はないが、早く知りたいとうずうずしてる奴がいるなら、そいつに任せればいいのだ。そして戦友が無事脱出してきた時、暖かい笑顔でこう言えばいいのだ……

「お前、やっぱ馬鹿だな」

 最高の台詞を思いついた時、ふと横を見ると、呆れた表情で人込みを見やる香里と視線が交錯する。逆横でほんわかしている名雪を尻目に、二人して溜息をついた。

 一緒にクラス変えの結果を見よう、といつもの面子言い出したのは北川である。最初俺と香里は「どうだっていい」と反論を試みたのだが、こういう時の北川はなかなか折れないのだ。激闘三分。無駄だと悟った俺たちが折れるまでに要した時間だった。そういうわけで、普段は遅刻ぎりぎりペースで起きてくれる素晴らしき寝ぼすけを、普段の何倍もの気合で十五分早く起こし、どうにか北川の指定した時間に間に合い、ハイテンションな北川に乗り気薄な香里と合流したのが三分前。北川が特攻したのが二分前。そろそろ戻ってくる頃合だろう。
 案の定、まもなくして北川が戻ってきた。全身全霊を懸けて情報を持って参りました、という、まるで戦時中の国のスパイのような面持ちで。
 香里に目配せする。向こうも小さく頷く。

『やっぱ馬鹿』

 ユニゾン・アタックは、見事に北川の心に傷を与えたようだった。

「な、何でお前らそんな声そろえて人のことを馬鹿にするんだよっ! 折角頑張って俺ら全員分のを確認してきたのに!」
「はいはいはい。で、どうだったの?」

 あっさりと北川の反論を受け流し、肝心な部分を聞く香里。実に扱いに慣れている。一方、ここまで発言していない名雪は何をやってるのかと見てみると、立ったまま寝ていた。器用なことをする奴であるが、残念ながらまだ日は沈んでいないのだ。とりあえずチョップ一発で文字通り叩き起こしといた。

「なんと、全員同じクラス」
『へえ……』
「何だよそんな安売りのボタンで叩いた様な感嘆はっ!」

 燃える男北川に対し、俺たちは名雪も含めて非常に冷静に受け取っていた。

「だって、クラスは同じなんだろうなあって、そんな気がしてたもん」

 代表して名雪が、俺たちの思うことを単純明快に代弁してくれる。

「それにクラス変わっても、私たちは多分変わらないなあ、って」

 そうだ、そうなのだ。クラスが同じだろうが同じでなかろうが、別に俺たちは変わらない。変わる必要もない。

「ま、そういうことだ北川。とりあえず一年間……」
「一年間よろしくね」
「……それ、俺が今まさに言おうとしてたんだが」
「言ったもの勝ちよ」

 香里がこちらに例の小さく口元を上げた笑みを見せる。なんとなく北川をどつき、それから再び寝入っていた名雪に、チョップを叩き込んだ。
 ――奇跡は、起きないから奇跡って言うんですよ。

 栞の言ったとおり、奇跡なんてシロモノは起きてはくれなかった。医者の宣告に従うかの如く、誕生日を迎える直前に、栞は息を引き取った。俺や香里、そして二人の両親に見守られて、病院のベッドの上で。深い悲しみにくれる俺たちとは対照的に、栞は安らかな顔をしていた。それが逆に、俺を苦しめる。

 栞に何をしてやれた?

 この地に転校してきて、栞と会い、栞に引き込まれ、そして俺たちは恋人同士となった。
 恋人として、栞にしてやれることは、思いつく限りほぼ全てやった。

 香里と栞の仲も戻した。いや、正確に言えば戻すきっかけを作った。
 元は仲の良い姉妹だったのだ。香里が栞を妹として少しでも認識出来たら、後は簡単。冷え切っていた時代を穴埋めするかのように、香里も栞にしてやれることはほとんどやったはずだ。

 栞は、日を追うにつれて幸せになっていったに違いない。これは、間違いない。
 だけど。
 幸せに比例して、栞の病状も悪化していった。
 悪化した先にあるのは、死。

 焼き場であの華奢な身体が灰と化すのを待っていたとき、横には香里が座っていた。
 二人とも、終始無言。焼き場で大切な人がその身を焦がしているというのだ。言葉なんて易々と出てくるわけがない。
 それでもいつかは言葉が精製される。先に口を開いたのは、香里だった。

「栞は、もう帰ってこないのね」

 ポツリと呟いた一言。
 現実。
 心の奥底まで静かに吸い込まれ、波紋を形成する。

「今にも、あの子がアイス片手にやってきそうな気がするのよ。もう、帰ってこないというのに。帰ってこないって、死んでしまったってわかってるのに!」

 香里の手は、硬く握り締められていた。あのほっそりとした指先、そして綺麗に形作られた爪が、彼女の掌を突き刺し、深紅の血を呼び出していた。
 俺は右腕を香里の前に突き出した。すぐに彼女は、両手の握り拳を開き、俺の腕を精一杯、目一杯掴む。爪が食い込んでくるが、気にしない。いや、痛みを分ち合うというべきか。この痛みは、彼女が今受けている痛みなんだ、と。

「最近は、それはあたしだって姉でいられた。だけど、だけどつい最近まであたしは姉じゃなかった! あの子のことを避け続ける、単なる臆病者だった! だから、まだ、まだ埋め合わせだって出来てなかった!」

 俺の腕を握り締めている香里は、普段学校で冷静に何事にも対処しているあの香里ではない。夜、俺の胸で泣き喚いた、弱い香里である。それをわかっているから、俺は黙って腕を貸す。そうでもしないと、彼女は潰れてしまいそうだから。

「それに、こんなに悲しんでる、こんなに苦しんでる自分がいるのに、『栞のことは忘れてしまえ。そうすれば楽になるだろう』って囁きかける自分もいるのよ! こんな弱い自分が嫌いよっ!」

 そこまで一気に捲くし立て疲れたのか、香里は肩で息をしていた。自然に、腕を掴む力も緩まる。俺は上下に動く彼女の頭に左手を置いた。

「とりあえず、姉でいられたことまでは否定するなよ? あいつは……栞は本当に嬉しかったんだから」

 手の下から返答はない。構わず続ける。

「それに……言い方は悪いが、現実から逃避するってのは誰だってやってしまうことなんだよ。香里はまだ逃避している時間が短かったし、回りの手助けはあったにせよ自分から戻ることが出来た。栞の姉としていられたじゃないか。だろ?
 ……七年も現実をすっぽり忘れてしまって、おまけについに自力で思い出すことすら出来なかったどこぞの馬鹿とは全く違う。香里は十分強い。だから……

 もう我慢せずに泣いていいぞ?」

 その言葉に、激しく反応するのが、手を腕を神経を通して伝わってくる。
 手の下から、小さく、弱々しい声が漏れてくる。

「あ、相沢君は泣かないの……」
「……今にも泣き出したいんだが、とりあえず女の子より先に泣くわけにはいかないだろ。だからさあ泣け早く俺が泣き出さないうちにっ!」

 ふっ、と小さく息を立てる音が聞こえた。
 それが合図。

「……っ……わぁぁぁぁっ!!」

 堰を切るように、香里は大声で泣き出した。俺は右腕はそのままにしてそっと立ち上がり、左腕を使って身体全体で彼女を包み込む。
 それでも彼女は泣き止むことを知らない。全身で、大声で泣き続ける。
 あの夜以来、良き姉であろうとするが故に栞の前で泣くことは出来なかったのだろう。溜まりに溜まって、今、全てを精算していく。

 栞……お前は、いい姉を持ったよな。
 俺は……いい恋人でいられたか?

 気づけば、俺の瞳にも熱いものが溜まっていた。香里にばれぬ様、こっそりと泣くことにした。
 奇遇なことに、始業式のあるその日の放課後に行われた席替えで、俺たち四人はこの間までと全く同じ席に座ることになった。即ち、窓側二列の後ろの四席。黒板に向かって左前が俺、時計回りに名雪、香里、北川。ついでに言うと、これはくじ引きの結果である。四十人クラスでこの席順となる確率は(四十×三十九×三十八×三十七)分の一だから……

「二百十九万三千三百六十分の一ね」
「もう一回いってくれ」
「2193360分の1ね。ついでに言うと、ロト6で販売総数に対して2等が占める割合よりかは低いわね」
「わかりにくい例えをありがとう、香里」

 とりあえずは、恐ろしい確率だということがわかる。そして、やはり香里の頭脳も恐ろしい。

「へへっ、これだと二年の三学期と変わんないなあ」

 後ろの席から北川の嬉しそうな声が聞こえてくる。振り返って確認するまでもなく、こいつは相当喜んでいるに違いない。

「そうだね、変わらないね~」

 こちらは名雪。右隣を向いて確認するまでもない。例のほんわかとした表情を浮かべているに違いない。

「……そうね、変わらないものもたまにはあるのね」

 香里の声には多少沈鬱な音色が含まれていた。右後ろを振り向いて確認するまでもない。例の気だるい表情を能面に貼り付けているに違いない。

 窓の外には、ようやく桜の小さな蕾がその存在を世に知らしめようとしていた。
 長かった冬が終わり、北に位置するこの街にも遅かった春が訪れようとしている。

「まあ、あれだ」

 四者四様の想い。一部想いがあるのか良くわからないがとりあえずそれを取り合えず無視して、俺は四つの席で作られた正方形の中心に向き直る。右手を差し出して。

「あと一年、とりあえずよろしく」

 一瞬の間。静寂。そして。

『よろしく』

 三つの声と三つの手が、俺に重なった。

「じゃあ早速百花家行こうぜー」
「おまえは……北川、一応今年から俺たちは受験生なんだぜ?」
「イチゴサンデー……」
「だーっ! 人が否定的に話しているそばからお決まりのメニューを出すんじゃないっ!」
「相沢ぁ、堅い事言うなよ。別に受験生になるからって、今までやってきたことを変える必要はないんじゃないのか?」
「む、北川のくせに珍しく正論を突きやがって……」
「俺のくせにってどういうことだよっ!」
「それは自分の心に聞いてみな。んで、香里はどうする?」
「あたし? んー……」

 香里の気だるさの仮面が外れる。

「いいんじゃない? 変わらないモノも堪能しましょ」
「ということだ、相沢」
「……オーケー。北川のおごりな」
「んなっ!? ちょっと待て!」
「北川君ご馳走様~」
「美坂まで乗るなよっ!」
「さぁ我らが北川のおごりだ。とっとと百花屋に赴こうじゃないか!」
「まだ俺はおごるなんていってねえっ!」
「北川君、イチゴサンデーご馳走様」
「水瀬までかよっ!」
「あたしは、変ることが出来るかしら?」

 そう香里は問いかけてきた。
 季節はまだ春とはいえない。時折寒風が吹きぬけ、夜の公園に冬をもたらしてくれる。その度に止まる事を知らない中央の噴水がばらけ、時折凍てつく様な水気が風と共に顔を刺す。
 栞がこの世を去ってから……いや、正確に言えば栞の病状が激しく悪化しだしたあたりから、香里と顔を合わす機会が増えていった。
 理由は二つで一つ。形式的に分けたうちの一つは栞に姉、つまりは香里のことを頼まれていたから。もう一つはおれ自身が、香里が心配だったから。そして、これらの理由の元になる理由が、香里が傍目から見てもかなり栞に依存するようになっていたから。

『私、心配なんです』

 今と同じこの地での栞との会話が脳裏に蘇る。

『お姉ちゃんは、今までのことを埋めようとする以上に、私に依存しています。なんか、今言ってて非常に照れくさく感じてしまうんですけど、そこはそこはかとなくスルーしてください』
『いや、別に恥ずかしいって思ってないからな。そして、俺もそう思うし』
『祐一さんも気づいてましたか……』
『そりゃあね』
『そこでです。祐一さん。お姉ちゃんのこと、お願いします』
『……栞?』
『自分のことは自分が一番よくわかります。私は、私は……』
『……その先は、言わなくていい。俺だって、つらいから……』
『……なので、その時が来たら、お姉ちゃんのことお願いします』
『……ああ、その時が来たら、な。その時には……栞じゃ出来なかったあーんなコトやこーんなコトを香里にやってもらうからなっ』
『なっ!! そ、そんなこと言う人嫌いですっ』
『はははっ! まあそれは冗談だ。冗談だから、あんまり悲しいこと言わないでくれ……』
『……はい』

 時には栞と一緒に三人で。時には二人で。三人でいる時は純粋にその時間を楽しみ、二人でいる時は溜めやすいタイプである香里の捌け口になった。三人でいる時は香里は妹好きな姉であり、二人でいる時は香里は死に瀕した妹を持つ、弱い人間だった。
 そして。
 栞がもういない今。
 俺は栞の分も合わせて、美坂香里という人間を枷から解放してやらなければならない。

 ……栞、俺に頼むのは、酷ってもんだろうが……
 自分の足にもはめられた見えない重りを感じながら、言葉を選んでいく。枷を外す、鍵となる言葉を捜して。

「変わることは果たして必要なのか?」
「どういう意味よ……」
「じゃあ聞くが香里、何を変えたいんだ? 自分自身全て? そんなもん抽象的過ぎるだろうが」
「で、でもあの子のことを忘れようとしていた過去のあたしがいたのは事実だし、今話している最中にも全て忘れてしまえと囁くあたしがいるのも事実なのよっ! この間と……あの子が焼かれているときと、何も変わってないのよ……っ! だから変わりたい、少なくとも強くなりたいっ!」
「じゃあ、栞のことをいつまでも忘れず、常に罪の意識に苛まれる自分が欲しい? あるいは栞が死んで、今こうしてあいつがいない状態で、それでも動揺することなく普段通り振舞うことが出来る強さを手にした自分が欲しい? ふざけるなっ! んなもんあいつが望んでるとでも思ってるのか!?」
「っ……!」
「いいかぁ? 香里の望んでる変化ってのは、単なるまやかしだ。そんなんになったって、表面的な変化しか伴わないし、第一お前、それで本当に栞に顔向け出来るのかよ?」
「で、でもっ!」
「でもも糸瓜もないっ! 戯言でしかないことにいい加減気付けっ!」

 びくっと、一つ大きく振るえ、香里は語尾に涙を滲ませながら訴えてきた。

「……じゃ、じゃあどうすればいいのよっ!! あたしはもう耐えられないのよっ!」

 その様子を見て、俺はあの日の夜と同じように彼女の華奢な肩を抱き寄せた。顎の下から、弱々しい嗚咽が漏れてくる。

 空を見上げた。漆黒の幕に散らばる星々の輝きは、少し前栞と一緒に見上げたときの輝きと全く変わらず存在し続けている。
 このくらいの期間じゃ星の存在なんて簡単に変わるわけがない。

 ……やっぱり、自ら耐えようとする分、香里は強いよ。

「……時々忘れな。時々思い出しな。栞のことを、栞を無視してしまった自分がいたことを。合言葉は……」

――それでも君を想い出すから――

 百花屋の店内は俺達みたいに春先の有意義な午後を楽しもうとする生徒達でにぎわっていた。始業式の日に考えることなど、大抵同じなのである。
 運よく最後の四人掛けの座席に案内され、早速四人でメニューを覗く。

「あー俺はホットコーヒーな」
「あたしはダージリンのホット、それとベイクドチーズケーキね」
「私、イチゴサンデーにホットコーヒー……」
「はいはい……って同時に注文言うなっ」
「頑張れ北川ー愛してるぞー」
「ふざけるなっ! 男に愛されても困るわっ!」
「わかってる。お前に愛なんか抱くわけないだろー」
「それはそれでむかつくな……あ、すいませーん」

 どうにか北川が注文をこなし、待つことしばし。注文通りの品がテーブルの上を彩る。

「しっかし、いつも思うんだけどさー名雪や香里はまあ女の子だからともかく、北川、お前も好きだなー甘いもん」
「ひひひゃひぇーひゃひょ」
「とりあえず、飲み込んでから喋りなさいよ……」
「北川君、怖い……」

 まだ春先だというのに冷たいアイスティーを飲み干し、北川の口の中がようやく空になる。

「いいじゃんうまいんだからここのベイクドチーズ。なあ? 美坂」
「へ? あ、そうね」

 不意を突かれたのか、珍しく美坂の返答は短く単純なものだった。北川が一瞬寂しげな表情を浮かべるが、それに気付けるのは俺だけか。

「そういえば四人で来るのって久しぶりだね~」

 もう流れをばっさり(つまりは北川の援護射撃にならない)切ってくれる名雪の発言。会話は何時だって唐突だ。
 だがしかし、名雪がいうことは何時だって真実だった。現に、三学期の終業式に一回集まって以来、二週間もこの四人で百花屋に来ていないのだ。普段週一か二で来ていたという過去の実像からすれば、二週間ぶりというのは実に久方ぶり、ということになろう。たかが二週間。されど二週間。
 その辺りのちょっとした寂しさを一番感じていたのが、やはりこいつか。

「ほんと、久しぶりだよね」

 北川潤。言いたかった台詞(多分第二希望)を言えて会心の笑み。こういう笑みは、なんというか潰したくなるのが人情。違うか。

「本当に久しぶりだなあ。北川とは」
「そうねぇ」
「そういえばそうだね~」

 はいご協力ありがとう、と固まっている北川を尻目に約二名に視線を配る。片や素で言いました的なのほほん顔で、片やしてやったりの嘲笑顔。この人たちは本当に変わらずよく出来ていらっしゃる。

「な、な……くきぃ~っ!」
「おまえ、それキャラ変わってるからな」

 そんなこんなで、いつも通りの会話をOver the cupの要領でやっていると、北川が突如立ち上がり、きっちり自分の頼んだ分だけの金をテーブルに置いた。

「悪い、今日用があったの忘れてた」

 皆、無反応。息はぴったり。

「って、普通こういう時って引き止めるもんじゃないか?」
「いやいや用を優先してくれたまえ北川よ。はっはっは」
「相沢、最悪だな……」
「軽い冗談だ」

 軽い小ネタを挟むが、まだ北川は去ろうとしない。なんとなく、北川の用があるっていうのが嘘で、本当は何をしたいかに気付いてしまった。気付いてしまった以上、早くしろと北川に目配せをせねばならない。
 俺の視線に気付いた北川は、ふっと小さく笑う。実に似合わないが、さすがにそこまでは突っ込まない。

「まあそういうことだから……あんまり溜め込まずに、時には俺らに相談してくれよ、美坂」
「へっ?」
「じゃあなー」

 北川、退散。声を掛けられた香里は未だに何のことだかわからぬ様子。名雪は……名雪も気付いていたのだろう、俺に向かって彼女の母親が見せるような優しい笑みを見せていた。

「……どういう事?」
「どういう事も何も、北川だって香里のことが心配だったんだよ。あいつなりにな。なあ、名雪」
「そうだね、北川君、栞ちゃんが、その……」
「……いいわよ名雪、続けて」
「その、栞ちゃんが亡くなったとき、香里のことを凄く心配してたんだよ」
「へえ……」
「へえ、ってお前感嘆薄いなー」

 例の小さく口元を吊り上げる笑みがいつもより崩れ気味な事に気付くが、それでもいつものように突っ込みを入れることは忘れない。おめでとう北川。お前の努力は、ほんのりと通じているらしい。

「まあ、あいつなりの優しさに触れたところで、今ここで泣くなよ」
「……何故?」

 すっかり温くなったコーヒーの残りを飲み干した。

「このまま泣かれたら、俺が二股掛けてたのがばれて、片方泣かしてるみたいじゃないか」
「……それもよさそうね。ね、名雪」
「面白そうだね」
「……勘弁してくれ」

 残った三名の百花屋滞在時間は、この後十五分ほどだった。
「段々わかってきただろ?時々忘れて、時々思い出す」
『なんとなく、ね……』

 百花屋から帰り、秋子さんのうまい晩飯を食って一息入れたところで、俺は香里に電話を掛けていた。リビングのテレビ前ソファー。一等席。横には名雪が座り、眠気と戦いながら必死にバラエティー番組を見ている。バラエティーを必死で見る奴は、きっと今この時点では名雪しかいまい。サブの一人掛けソファーには真琴が座り、祐一っそこ私の席だから早く退いてよねっ、と視線で訴えかけてくる。とりあえず、視線で黙らしとく。あゆはというと、後方のダイニングテーブルで、俺と名雪が帰り際に買ったたい焼き(秋子さんが上手に温め直していた)を、実に幸せそうに食べている。たった百円で幸せを与えているのだから、たい焼き君としても本望だろう。
 あゆに視線を送り、たい焼き一個よこせと要望。無事俺の手に渡ってきて一口かじる。うむ、秋子さん温め方上手い。

「まあそんはほこは」
『……北川君みたいに食べながら話すのはどうかと思うわよ』

 受話器の向こうで呆れた顔をしている香里が目に浮かぶ。
 ようやく、彼女も今までのような香里らしさを取り戻してきた。いや、昔より幾分感情が豊かになったかもしれない。この辺りは北川がよく知っていることだろう。

 ……これでいいんだろ? 栞……

「ん、ようやく飲み込めた。別になー気取って自分らしさを出す必要もないし、大体自分らしさなんてもんは自然ににじみ出てくるようなもんだろ」
『……それと時々忘れて時々思い出すがどう関係するのよ』
「日常の中、自分でいる間は別に忘れていたっていい。ただ、想い出したいときに栞のことを想い出し、栞といた日のことを脳内で再生すればいい」
『相沢君はそうしているわけ?』
「そりゃそうさ。そうでなきゃ、今頃どうにかしてる。今日みたいに日常は普通に北川でいじめて、家に帰ってきてふと時間が生まれたときに栞のことを想い出してあの時汚れたストールどうしたんだろうーみたいにしてる」
『あの時汚れたストール?』
「あーそれはこっちの話だ。気にするな」
『気になるわね……』
「そんなこと言う人嫌いですっ」
『……気持ち悪いわよ』
「……すまん」

 ちょうどブラウン管の中で、有名だけど笑えない芸人が、また笑えないことを言って周りを凍らせていた。真冬の校庭で食べるアイスと、どっちか冷たいのか。

『そういえば』

 電話越しに、多少雰囲気を変えた香里がいた。

『なんで相沢君は、こんなに助言できるわけ? 何か七年前がどうとか前に言ってたけど』
「あーまあ、一言でいうならうぐぅだ」
『??』
「これも気にするな。名雪が眠そうだから名雪に代わる」

 そして、本当に眠りそうだった名雪に受話器を押し付ける。わ、ひどいよ、という名雪の声が聞こえたが、無視して天井を見上げた。
 天井にはほんの少しだけしみがあった。あのしみは、七年前も同じように存在していたのだろうか。覚えてない。

 ……そう、覚えてない。
 でも、大事なことは、色々合ったけど思い出せた。
 もう、忘れない。

 後ろを振り返ると、一回忘れてしまっていた女の子は、そこに確かに存在して、幸せそうにたい焼きを食べていた。記憶が確かなら、あれで三個目。太るだろうなーなどと思っていたら、脇腹に真琴の蹴りが飛んできたので、多少文句を言いつつ真琴と席を変わってやり、ついでに台所に向かった。

「秋子さん、アイスクリームあります」
「ええありますけど……まだ季節が早いんじゃないんですか?」
「いいんです、ちょっと食べたくなったので」

 夜のベランダで食うアイスは、笑えない芸人のギャグより冷たいことがよくわかった。
 今なら、今だから言える事が一つ。

「栞……お前、確実に自分で自分の寿命縮めてたろ……」

 気付けば、甘いはずのバニラアイスが少しだけ塩辛くなっていた。
 風が吹いていた。多少の春らしさを含むその風は、柔らかさと温かさを持って冬の長いこの街を春色に染め上げていく。手にした小さな花束も、春風に誘われて首元を光へと精一杯伸ばしている。

「よかったね~晴れて」
「そうね……これが雨だったら気が滅入るわね」

 前を行く二人からも、そんな会話がもれて来る。
 始業式の日から十日とちょっと。あの時感じた春の予感は、今確かにこの街に実体となって根付いている。きっと地面に触れれば、また次の季節へ向かう原動力が、静かに、しかし力強く脈動しているに違いない。

 見上げれば、春特有の少し霞がかった空。絶好の墓参り日。

 途中、何事もないように会話が進み、気付けば既に栞の墓の前だった。
 ……いや、何事かあるからこそ、何事もなかったのか。人間心理に巣食う矛盾点は、時に不変を与えてくれるものである。

 四人揃って美坂家ノ墓と書かれたごく普通の墓石の前に一度佇む。そして、各自墓掃除を無言で始める。さすがに、ここまで来て言葉は簡単に生まれはしない。
 わずかな間に溜まっていた埃や汚れを取り除き、前回供えた花を今回持参した花に変え、線香に火を灯す。

 黙祷。
 今回初めて持ってきたバニラアイスが、墓地の雰囲気と実にミスマッチ。存在感だけは莫大。

「こうやって四人で来るとさ」

 黙祷が終わり、一同顔を上げたところで北川が呟く。

「悲しみも苦しみも、あるいは栞ちゃんといた時の記憶も、色んな事を四人で共有できる気がしないか?」
「北川、人の恋人とのわずかな一時を勝手に共有しないでくれ」
「って、こんな時にボケかよ!?」
「いや、何事もらしさを保つのは重要だぞ?」

 少し気分を害した様子の北川に、にやりと笑みを向ける。それだけで北川は、俺の意図に気付いたようだった。

「……じゃあ相沢、この場でお前もお前らしさを発揮しろよ? 女泣かせ相沢君」
「祐一……最悪」
「なっ? いつから俺は女泣かせの称号を得たんだよ!? つか名雪も信じるなっ」

 静寂に包まれていた墓地に、俺達の声が響き渡る。
 その声の中心で、一人だけ墓を見つめていた香里がこう呟く。

「……姉妹揃って泣かせたのは、どこの誰かしら……?」

 再び静寂。そして。

「おい相沢っ! お前それどういうことだよ!?」
「祐一、鬼畜だよ……」
「いや待てってそこには遥かなる誤解が、つか香里っ! ますます人の立場を悪化させるような嘘言うんじゃないっ!」
「あら? 事実は事実よ」
「相沢―っ!!」
「だから誤解だっての!!」

 四人分の賑やかさが栞の墓を、周囲を巻き込んで広がっていく。何時までも誤解しっぱなしの北川をとりあえず殴りながら、視線だけは栞の方に向けて、これでいいんだろ? とだけ囁いた。
 風が吹き、木々が揺れ、木の葉がざわめく。これを返答と思うことにした。

 一頻り賑やかにしたところで、日が少し傾きだしていた。
 そろそろ帰る時間だろう。帰宅し、学校に再び通い、日常という不変であるべき時間の流れの中に身を投じる。早い流れの中では、色んな事が過去として後ろに流れていくことだろう。それは、人の宿命。脳内という不安定な記憶装置を持つ生命の宿命。

 でも、俺は忘れない。
 時折、想い出すんだ。
 確かに、美坂栞という彼女がいて、悲しく、だけど楽しい時間を共有したという事を。

 さあ帰ろう、と皆で歩き始めたところで、俺と香里は同時に立ち止まり、栞の眠る方へと振り向いた。
 俺は問う。

「合言葉は?」

 香里はいつもの口元を少し吊り上げた笑みを見せた。
 ……もう、わかってるじゃん。

『それでも君を想い出すから』

 二人分の声が春風と重なり合って、遠く彼方まで、栞が今いる場所まで運ばれていく。
 そんなイメージに襲われた。