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CLANNAD/my mind

 家に着き、あたしは静かに鍵を開け、ドアを開ける。ただいまも言わず、そっと中に入る。ただいまを言わないのは、一つはただいまを言う相手がいないから。今はまだ昼過ぎだ。両親は共働き、妹はさっき見た。本当なら高校生であるあたしがこの時間に家にいるのがおかしいのだ。だけどそんなことはどうだっていい。
 ただいまを言わないのは、もう一つは言う気になれないから。そうだ。別に相手が云々ではなくて、言いたくないからだ。
 あたしはまた自分に言い訳をしていた。これはいつまで続いてしまうのだろう。考えたくもない。少なくとも今は。

 ふと今の自分の格好を思い出す。
 全てずぶ濡れ。外のざざぶりの雨の中を帰ってきたのだから当然。このまま部屋に向かうのはまずい。それくらいの理性はぼろぼろのあたしにも残っていた。
 暫しの黙考を経て、とりあえず靴を脱ぎ、脱衣所に向かうことにする。服としての機能を失ったばかりか不快感しか与えてくれない制服を脱ぎ、洗濯機に放り込む。これだと明日の制服に困るだろうが、構わない。どうせ明日は自主休校だ。妹よりわずかにサイズの小さい下着も外し、いざ風呂場へ、というところでガスのスイッチを入れてないことに気付く。温かいシャワーを浴びるには、当然ガスを付けなければならない。
 面倒臭いことか、温もりか。近くにあったバスタオルを掴み、身体に巻き付け、台所まで行ってガスのスイッチを入れ、ようやく当初の予定通りあたしはシャワーを浴びることが出来た。

 蛇口を捻りノズルから出てくるそれは、雨とは異なりちっぽけな温もりくらいは与えてくれる。乱れた髪、冷えきった胸、かじかんだ指先、ノズルから飛び出した湯が、あたしを隅々まで温めてくれる。

 何だか、無性に泣きたい。先ほど既に一回泣いたけど、温められたおかげであたしのやってきたことが如何に惨めかを改めて理解出来る。だから泣きたい。

 結局、シャワーを浴びながらあたしは涙した。喚きたかったけど、それだけは我慢した。
 台所にガスを消しにきたとき、時計を見て自分が一時間もシャワーを浴びていたことに気付く。だが、それだけ時間が掛かっていたにも係わらず、のぼせることはなかった。それだけあたしは冷えきっていたのだろうか。



 自分の部屋に入り、内側から鍵を掛ける。カチャリと音を立てたそれは、如何なるモノも侵入を許さないちっぽけだけど強固な砦。そう、それでいい。それでいい。
 身に纏っていたバスタオルを椅子に掛け、そのままベッドの上に小さく座り、新たに掛け布団を纏う。ある程度は水気を拭き取ってあるが、如何せんこの長い髪だけは梅雨独特の湿気と相まって、拭くくらいでは乾いてくれはしない。今だけは長さが憎たらしいが、憎んだところで相手違いなのでやめておく。結果、掛け布団が被害を被るが、それも気にしない。気にしなくていい。

 小さく、小さく包まる。

 ピエロは、斯くも惨めなのか。今の縮こまり方が全てを表している気がする。気付いた分マシ? これなら気付かなかった方がマシ。
 ピエロは常に引き立て役。主人を立て、後ろで道化を演じるのが役割。

 どうやら、いや間違いなくピエロはあたしに合わないらしい。

 開けっ放しのカーテンの外に広がるのは、ここ最近見慣れた雨模様の空。雲の隙間から-ホーリーライトは見えない。向きの関係で見えないだけかもしれないけど、今この時点であたしを照らしてくれないのは何ら変わりがない。

 そういえばボタンはどうしたんだろう。今の今まですっかり忘れてしまっていた。ダメな飼い主。まだあの場所であたしを待ち続けているのかもしれないが、捜しに行く気力なんてあるわけもない。
 ……でも今はあの温もりが欲しい。くすぐったく柔らかい感触の奥に秘められた体温を感じていたい。

 ないものねだりはしないことにしよう。ごめん、ボタン。

 自分自身の体温だけで温かくなるよう、ますます小さくなって布団に包まる。これが今のあたし。これだけが全て。

 そのまま横になる。眠気がじんわりと脳内を侵食していく。

 寝て、明日一日ぼーっとして、全て忘れよう。そうしたら椋となら元に戻れるはず。うん、戻れる。朋也とは……もう、いい。

 さようなら、今日だけの特別なあたし。
 おはよう、今までのあたし。

 ……おやすみ。


 コン……コン。

 コン……コン。

 二度の躊躇いがちなノックが、あたしを束の間の休息から引き摺りだす。躊躇うくらいならそっとしておいて欲しいと切に願うが。

 コン、コン。

 先程よりやや強めに叩かれたドア。どうやら訪問者は何としてもあたしに会いたいらしい。
 止めてほしい。

 思いとは裏腹に頭は徐々に覚醒していく。今何時? 19時ついでに20分。窓の外? 最近はいつだって暗い。今のあたしの格好? とりあえずこのまま出たら、間違いなく間違い。けだるさの残る身体を鞭打ち、布団に包まったまま、まずはカーテンを閉める。そして布団をベッドに置いて、クローゼットから適当に下着と室内着を見繕う。
 その間もノックは止まない。これが1Kアパートなら誰かの悪趣味な悪戯あるいは脅迫めいた新聞勧誘だと割り切れなくもないのだが、あいにく実家の自室。家族に悪趣味な悪戯が趣味の人物は、17年ちょっとを生きてきていないことを知っている。ならば出なければ、あたしには戻れない。
 ドアの前に立ち、ココロに手を当て、いち、に、さん。大丈夫、少なくとも声色くらいはいつものあたしに戻せるはず。

 ちっぽけだった砦を開け放つ。乗り込んできたのは予想通りあたしの半身で、いつもにまして不安げな表情を浮かべている椋だった。

「どうしたの?」

 うん、いつもと同じ声。わずかな震えなんて感じられないくらいだろう。
 と思うあたしの頭はまだ覚醒しきっていなかった。椋がわずかな違いを感じられないわけがない。姉として太鼓判を押せるくらい椋はこの手の違いに敏感である。案の定、椋はますます心配そうな顔を見せる。そして。

「お姉ちゃん、何があったの?」

 どうしたの、じゃなくて何があったの。状態が分かり切っているから原因を直接尋ねてくる。ほら、やっぱり椋にはばれてるじゃない。あたしの馬鹿。
 だけど、あたしの口をついて出た言葉は、あたし以上に馬鹿だった。

「え? 何もないけど?」

 あたしの、馬鹿。
 あまりにも不自然すぎるこの言葉は、ますます妹の不安を煽る効果を発揮した。

「何もないって、そんなことないでしょう?」

 あたしとほとんど同じ顔で髪の長さだけ違う彼女は、あたしが持ち合わせていない純・心配といった表情でぶつかってくる。今まで何度か助けられたこの表情も、今回に限って言えば砂糖に似せた砒素でしかない。累積して、手足の先からじんわりあたしを追い詰めていく。

 戻れる?
 残念、また一歩押し出されてしまった。

 戻せなかった感情が首をもたげてくる。出したい出し切りたい全て。そうしたらどれだけ楽だか。そうしたらこの痛みの意味は変わるのか。
 変えちゃいけない。

「あたしは大丈夫。だけど今は独りにさせて。ね?」

 変えちゃいけないから、今はこの子の前から逃げ出さないといけない。
 全て気付かなかったことにして、元に戻って、それが一番よくて。

 改めて築き直したところで、椋はあっさりと小さな砦を突き破ってくれた。

「朋也くんのこと、だよね?」

 ぎりぎりのところで全て崩れさるのは堪えた。あとは笑え、あたし。誤魔化せ、あたし。

「あはは、何で朋也が出てくるのよ? 大丈夫、本当に何にもな」
「嘘。絶対嘘だよ、お姉ちゃんは私に、お姉ちゃん自身に嘘ついてる」

 あたしを遮って生み出されたコエ。貫通力をもつ声。

「あたしが、あたしと椋に嘘を?」
「うん……もう、いいよ」

 心配から寂寥へ。見て明らかにわかる椋の表情の変化。

 瞬間的前兆。
 作ってきたものが、今まさに……

「お姉ちゃんは皆に気持ちを偽ってきた。でも、私は気付いてた。だから、もういいよ」

 ――お姉ちゃん、朋也くんのこと好きだよね?ずっと前から。

 頭の中に、今日が思い出される。

 ……もう、戻れない。
 糸は切られた。

「……そう、あたしは、朋也が、好き……」

 一単語一単語、喉に突っ掛かり傷つけていく。
 熱い。痛い。ひたすらに。だけど切れても紡ぐ。

 「でも、もういいのよ。ね? だから椋は椋の心配だけしなさい。お姉ちゃん応援するから、今までみたいに」

 元に戻す。ゆっくり紡ぎ直す。ほつれた部分を、元どおりに。
 しかし、その努力は伝わらなかった。

「そんなの……勝手すぎるよ!」
「……え?」

 勝手すぎる。椋の口から表れたその言葉の意味がわからない。

「お姉ちゃんは勝手すぎる。自分が恐くて前に出れない。私を押すことで疑似恋愛をしてる。臆病だから、私を押す、私に押しつける、そんなの勝手すぎる! ずるいよ!」

 勝手すぎる。ずるい。
 不思議な単語が飛びかっている。
 何故?
 鋭利な刄は糸を、心を切り刻んでいく。
 何故?

「お姉ちゃんは妹の為と思い込んでは逃げて押しつけてる。本当は、お姉ちゃんだって朋也くんと一緒にいたい、抱き合いたい、キスしたい。それを私がすることで、満足した気になる」

 何も言えない。何も言い返せない。日中、気付いてしまって一度奥底に隠した真実を、椋はまたあたしに見せ付ける。

 しばし間が空いて、ようやくあることに気付く。

「椋……なんであんたも泣いてるのよ……」

 力の入らぬ腕を必死に上げ、涙をそっと拭う。

「お姉ちゃんが泣いてるから……」

 ……違う。これはあたしがつくのと同じタイプの嘘。もらい泣きをするとき、この子は小刻みに震えずただ涙だけ流す。なのに今は全身で震えている。
 何もできない。何も喋れない。椋はあたしに何を求めてる?

 若干の静寂を経て、目の前にいる、あたしと同じ顔で且つ涙も流してる妹は、こう言った。

「お姉ちゃん、ちゃんと朋也くんに告白、しよ? そうしたら、きっと全て解決するから」

 瞳の先に、ある種の決意が潜んでいることだけは感じ取れた。
 頭の中で自分でもよくわからない何かが駆け回っている。
 あたしが、告白する?
 朋也に?
 甘い毒のような響き。全てが終わり、全てが消えるような……

 それはあたしの求めていたもの。

 ……だから、あたしは今日、朋也に、

「もう、好きって、言った……」

 言った。言ってしまった。だからあたしはこうなって、罪悪感の塊に潰されていて。眠ることで少しだけ忘れてしまって、いや、それも嘘で忘れていたいだけで。
 もう、メチャクチャ。よくわからない。
 見るからに慌てふためき動揺しているあたしを前にして、椋は告げる。

「朋也くんの答えは聞いたの?」

 ……この子は、先程から何を言っているのだろう。

「聞くも何も……朋也は椋の恋人じゃない。答えは決まってる。決まってなきゃ……」
「でも聞いてないんだよね?」

 有無を言わさぬ勢い。あたしは頷くしかなかった。

「なら、ちゃんと聞かないと。はっきりしないよ?」
「椋……」

 ここまで来た。来てしまった。もう戻れない。
 きっと椋はわかってるんだ、朋也の動揺を。今まであいつの横にいた分、より強く感じてるんだ。

……時は、戻らない。時計と違って進み続ける。

「このままだと私たちはばらばら。誰もが苦しんで、動くこともできない。だから一つずつはっきりさせないと。朋也くんがお姉ちゃんをどう思ってるのかを」
「でも……あいつは優しすぎるから、あたしに本当のことなんて言えるわけが……」
「それなら私にいい案があるよ」

 耳打ち。驚くような策があたしの脳内に飛び込んでくる。

 それはあたしたちでしかできないこと。
 全てをはっきりさせるためにあたしのわずかなプライドを切り捨てることになるが、それでよかった。

「椋……ごめんね、あんたの恋人好きになっちゃって。ちゃんと、振られてくるから……」
「うん……お姉ちゃんがふられた時は、一緒に泣いてあげるよ」
「……ありがと……」

 堪えていたものが再び溢れだす。
 止まらない止められない。
 熱い塩味の涙が、ひっきりなしに頬を流れていく。
 ぼやけた視界の中で椋が再び泣いているのが見え、少しくらいは姉らしくいたかったので、抱き寄せて泣いた。二人揃って、声を上げた。


「なるほど、そんな事があったのか……」

 あたしの目の前で、アイスティーを啜りながら難しい顔をして朋也は唸っていた。

 あたしたちが結ばれて、つまりは朋也が椋と別れ、そしてあたしと付き合いだしてから既に一月以上は経過している。一月、といえばそれなりの期間。あの時椋の助言で切り落とした髪も、肩上くらいまでには伸びている。
 今日は休日。二人で軽く店を冷やかした後、立ち寄った喫茶店で朋也が切り出したのが「あの日、あたしと椋がどんな話をしたのか知りたい」である。乙女のプライバシーを何たるや、と軽くコンパクト国語辞典でどつこうかとも思ったけど、あまりに真剣な表情で聞いてくるもんだから、つい答えてしまったのだ。
 椋、前からわかっていたけどお姉ちゃんいろんな意味で弱いみたい。

「だいたい、何でそんなこと聞こうと思ったのよ……」

 過去を話す、と言う行為そのものに少しだけ恥ずかしさを覚えつつ、あたしはいつもと同じで聞き返した。

「いや……ずっと思ってたんだよ。杏も、椋も、二人とも強いなって」

 朋也は相変わらずアイスティーを啜りつつ、こう告げた。

 強い。あたしが?
 椋はわかる。
 でもあたしは強くない。
 強くないから、ここにいる。
 あたしは……

「おい、杏」
「へっ?」

 思考の深い濁流に飲み込まれかけたところに声がかかり、思わず間抜けな声を上げてしまった。

「どーせお前のことだから“あたしは強くない強くない”とか考えてるんだろ?」
「うっ……」

 図星。普段はちゃらんぽらんなのに、こういう時だけ鋭い感性を発揮するのは卑怯だと思う。

「大体考えても見ろ。お前は最初、椋に俺を譲った。これを強くないとして何と言う? いや、何か色んな意味で語弊招きそうな内容だなこれ」

 照れくさいのだろう、鼻の頭をかきながら朋也は言った。

「でも……」
「デモもテロもないっ」
「それ、どこかの国で言ったらたちまち殺されるわよ……」
「まあ、その辺は気にするな。ともかくだ、お前は強い。そして椋も強い。それが……」

 お前ら二人の間のことになると、と小さな声で朋也は呟いた。

 あたしたち二人のことになると、それぞれが強さを発揮する。朋也の言いたいことはこういう事だろう。それが、何故なのか? 疑問はつまりそこ。

 ……なんだ、これは簡単じゃない。

「実はね、さっきの話に続きがあるのよ」

 ほほう、と朋也が頷くのを確認してから、あたしは更に過去の記憶を引き出してきた。


 二人で散々泣きあって、気付けば一時間は過ぎていた。既に涙も枯れ果て、頬に少しいたい痕が残る。めちゃめちゃな表情を見せ合ったあたしたちは、互いに笑いあって、それから一緒に顔を洗った。
 その後に、あたしは椋にこう言った。

「椋って、強いわね」

 対して椋は。

「そんな事ないよ、お姉ちゃんだって、強いよ」

 そっちの方が、いやいやそっちがでは話が進まないので、両方とも強い、ということに便宜上しておいて、なら椋はどうして強いの、と質問を変えた。

「私が強いのかどうかはよくわからないけど……だって、今回は家族のことだよ? それも、双子の姉、一卵性双生児という、世の中でもっとも血の繋がりが深い家族のことだもん。本気になって考えて、そして感情を共有しないと」

 泣きはらした痕が消えない、けどとても素敵な笑顔を浮かべた椋がそこにいた。


「あたしが強いのかどうか、よくわからないけど、あたしたちはきっと、双子だから、お互いのことを強く想えるから、色んな行動に出れるのかなーって。あたし自身はよくわからないし、今回のことに関しては全然強くなかったけど、でも昔のことを振り返るとそんな感じかなって」
「双子、か……」

 相変わらず啜り続けながら朋也は感心したように言った。

「いいもんだな」

 対してあたしは。

「最高よ」

 そう答えた。

「なら俺も負けないようにしないとなー」
「そうよ、せいぜい頑張ってちょうだい」
「な、お前恋人にいう言葉じゃないだろ、それ」

 時が、進みだす。
 色んな想いと、つらさと、悲しみと、弱さを乗り越えて。
 妹の、椋のおかげで。

「朋也、好きよ」
「なんだよいきなりはずかしいな……俺もだ、杏」

 心に温もりを抱いて。