>TOP >ss >detail

一次/セカイノショ

 見上げればいつも、彼の視界には薄汚れた病院の白い天井があった。代わり映えのない光景、シミの数を見ないでも「十三本」と言えるくだらない自慢しか得るものはない。
 右に顔を向ければ、窓、そして外に広がる空。たとえ窓が開け放たれていたとしてもそこには見えない壁があって、病室と外とを明瞭に分けていた。たまに手を外にかざせば、水のような柔らかく薄い膜を突き抜ける感触のあとに、ようやく空気に触れることが出来るのだ。でも、外の空気を捕まえてきて部屋の中に解き放っても、一瞬で戻らぬ存在となる。

 外と中とは、世界が違うから。
 ここは、滅びへ向かう変化以外に存在しない場所だから。

 彼は、この空間をそう結論付けていた。

 深い溜息さえも、命を吹き込まれた途端に掻き消えていく。



 彼の体を幼少期から蝕んでいるその病名は、先天的な慢性白血病だった。加えて悪性腫瘍が各所に散らばっている。緩やかな進行を見せていた病状が急速に悪化したのは、十歳を過ぎた辺りだった。それ以来、主たる生活の場も学びの場も、今いる病院が全てを占めていた。閉鎖された空間の中で、週に三回欠かさず見舞いに来る両親と幼馴染の少女以外外部と接触を取ることもできない。唯一の楽しみといえば小説を書いて幼馴染に見せることだけ変わり映えも生産性もない日々。そんな時間を過ごすこと早六年。

 今日だって、日々は変わらない。
 つい先程幼馴染も帰り、少しだけ残った柔らかな空気もすぐに掻き消え、いつものとおり閉鎖空間が彼を圧倒する。

――ああ、僕はここから出られず、そして死ぬんだ――

 常に彼の脳裏をよぎるフレーズが、彼を襲う。

――……外に出たい――

 そして決まって直後に起こる衝動。

――外に出たい!自由に駆け回りたい!――

 普段は隠し通している願望も、一度表出すると言うことを聞かなくなる。
 生きたい、ではなく、外に出たい。自由に駆け回りたい。既に死ぬことが射程に入っている彼にとっては、長く生きるという希望は当の昔になくなり、最後にやりたいことだけが強い願望として心の奥底に埋没している
 埋もれていたものに一頻り暴れてもらった後、更なる絶望感だけが、取り残されて彼の身を蝕む。願望と絶望は紙一重。今がある以上望んでしまうのであり、そして必然的に落胆もあるのだ。この矛盾から、逃げ出すことは出来ない。

 少しして立ち直った後、彼は身体を起こしてペンを手に取り、先程幼馴染に見せた書きかけの小説の続きを進めることにした。

 文字のセカイは自由。文章作法と言う制約を除けば、どんな世界だって構築できる。空想力溢れるファンタジーの世界も、リアリティの塊ともいえるサスペンスも、ペンと紙さえあればこの世に生み出すことが出来る。
 生産、という行為の一種に彼は興奮を感じるのだ。興奮をエネルギーとして、書きたいと望んで止まない話の続きを書き連ねていく。

 物語の中に、自分を重ね合わせて。



 コンコンと、遠慮のあまり感じられないノックが唐突にドアから響いてきたのは、普段家族や幼馴染が面会に来ない午前のことだった。
 手にしていたペンを机に置き、一瞬天井を見やってシミの数―いつもとおなじ十三本だが、図らずも日付と一緒だった―を見やってから、身体をドアへと向けて彼は「どうぞ」と告げる。

 入ってきたのは彼の見知らぬ女性。小脇に紙袋を抱えて、おはよう、と軽く会釈をしつつ部屋の中へと踏み込んでくる。
 空気が、ざわめく。

――来るな!入るな!帰れ!――

 明らかな拒絶反応を彼は感じ取っていた。女性の纏う雰囲気は、外の世界の存在そのものだったからである。閉鎖され変化しない場所に、新しさは必要ない。だから断固たる拒絶の流れが生まれる。
 だが、女性の方は気付いていないのか、意に介した様子を見せない。

「……誰?」

 彼は多少こわばった声で尋ねていた。彼にとって、変化とはすなわち死への道標であり、多少なりとも変わることへの拒絶を内包している。

「はじめまして。私は『本を渡す者』よ」

 風もないのに棚引く黒の長髪を抑えつつ、女性は告げた。
 見た目、彼と同年代かそれより一つ二つ上といったところか。
 繊細で儚いのに、何故か存在感がある。簡潔に言うなら、このような空気を放出していた人だった。

「本を、渡す者……?」

 訝しげに、そして不審げに彼は聞き返す。初対面の人間が放つ台詞としては、あまりに突飛すぎる台詞だったからだ。

「そう、この本を、貴方に」

 女性が紙袋の中をあさり、何かを取り出す。

 それは、女性の宣言したとおり、本だった。
 古ぼけた赤色の厚紙が表紙。四隅はめくれ上がり、年代物であることを示している。
 だが。
 不思議とその本から「経過した時間」そのものは感じ取ることが出来ない。生まれながらにして古物の称号を得ているかの如く、初めから古ぼけているのだと確信させる何かが、この本にはある。

「どうぞ」

 差し出された本を素直に受け取り、彼はこれでもかというほど凝視した。そして、目で「開けていいか?」と女性に問う。初対面の女性から、何故か手渡された古い本。あまりにもおかしすぎる状況、不審すぎる状況下であるというのに、それら不確定要素を相殺して余りあるほどの魅力が本から発せられていた。

「いいわよ。それは、今は貴方の本だから」

 言葉を受けて、表紙を一枚めくる。
 そこに広がるのは、空白の世界。
 ただただ真っ白なページが彼を直視していた。
 本、というよりはノートである。
 まるで、そこに話を綴ってくれといわんばかりの。

「その本は、貴方のもの。貴方が、世界をそこに作る」

 彼の考えを汲み取ったかのように、女性が言葉を紡ぐ。それは、まさに呪文だった。

「そして、真実を知る」
「真実……」
「この本には、それだけの力があるわ。特に……貴方のように文章を書くことの出来る人が手にすると、ね」

 話が途切れた一瞬、女性は彼の書きかけの小説へと目を向けていた。つられて彼も、自作の小説へと視線を落とす。
 そこに書かれているのは、間違いなく彼が作り上げた世界だった。自分が考えた話を言葉に変換し、紙に記す。その作業を経て生まれた、小さな世界。小さいけど、無限に広がる世界。
 ふと、彼の脳裏にある確信が生まれる。

――だから、この本は僕の手元へ渡ってきたんだ――

 本を、小さく抱きかかえる。

「何をやるかわかったようね。ならば私の役目も終わり。さようなら」

 踵を返し、女性は病室の外へと歩き出す。その背中に彼は、急いで声をかけた。

「待って、君の名前は?」

 問いに対し、女性は振り返りもせずに答える。

「私の名前なんて不必要よ。教えても意味がないことだから」

 そのまま退場。病室にいつもの光景、いつものシミ、そしていつもはない本が取り残される。

 そして、彼の心は異端である本に、惹きつけられる一方だった。



 午後。
 彼は、本を前にして悩んでいた。
 決して、本をどうするかについて悩んでいるわけではない。処遇についてはもう答えは出ている。問題は、答えをどう調理するか。

 すなわち、どんな話を本に書きつけるのか。

 女性の言葉、そして本自体が持つ神秘性から彼がたどり着いた答えは、この本は世界を作ることが出来る、というものだった。本に書いたことが、そのまま現実世界に表出し、そのまま居座ることになる。彼の作り上げた世界が、世界になる。

 まさに、セカイの書。
 神々の力を持つ、書。

 現実を作り上げる行為、それを目の前に彼は多大なる高揚感と重圧に踊らされていた。ペンを持つ手が、小刻みに震えている。書くことが現実になる、その意識がさらなる気分の浮沈を生み出し、そして循環する。

 つまりは、彼は何も書けない状態に陥っていた。

 こん、こん。

 ドアを躊躇いがちに叩く音が、彼を螺旋階段から引きずり出す。
 ノックの音で、彼は誰が訪問してきたのか見当がついていた。この叩き方は、幼馴染しかいない。
 かくして、現れたのは幼馴染だった。

「入るよ?」

 少しだけ顔を出して、了解を待つ。彼は軽く頷き許可の意を示し、それを見た彼女は静かに病室内に入ってきた。ベッドの横に置かれた椅子に、静かに腰を下ろす。

「どうしたの?その本」

 開口一番、彼女は机に置かれた本を見て疑問をぶつける。彼女にしてみれば、つい昨日訪れたときにはなかったのだから、当然の疑問である。
 疑問をぶつけられて、彼は少しだけ頭をかいてから答えることにした。

「これは、現実を作り上げる本、らしい」
「現実を、作り上げる……」
「うん、本当かはわからないけどね」

 語尾を僅かに滲ませて、回答が必ずしも正しいわけではないことを示す。実際のところ、疑いようもないほど『現実を作る』という言葉がこの本には当てはまるのだと考えているのだが、脳裏では微かに、そんな話があるはずがない、という現実的な反論も生まれていた。だから、なおのこと試してはみたいのだが、現実を作ることを試すなどよくよく考えれば簡単に出来るものでもない。
 物事には必ず因果があり、因果が繋がって結果となり、また次の因果となる。この過程を繰り返すことが、世界の進行規定だ。
 現実を作り出す、ということはセカイが生まれてこの方続けてきた循環の輪を、壊すことになりはしないだろうか。

 自分の存在をよそに、深い思考の渦に飲み込まれている彼を見て、幼馴染は一つ、溜息を吐き出した。

「ねえねえ」

 声に反応して、彼の意識はまたもや表層まで引きずり出される。

「うん?」
「その本が、本当に現実を作り上げるものだとしても、ね」

 幼馴染は少し顔を俯け、目を細めて切り出した。

「それって、少し悲しいと思わない?過程が全然ないみたいで」

 過程がない現実。因果がない現実。
 彼が考えていることと幼馴染が考えていることは、全く一緒のことだったのだ。と言っても、観点や込められた感情は違うのだが。

「例えば、今ここにあるのは現実だよね?」
「うん、これは、確かに現実」
「私がこうして一日おきくらいに来るのも、まあそれなりにその、あの」

 言葉が急速に不明瞭になるが、彼は触れないことにした。わかっていることであるし、今そこに、意味はない。

「ともかく、何かしらがあって私はここにいる。だけど、もし現実を作ることが出来て私がここにいる、というものを割り込ませたとしたら、状況自体は今と変わらない。だけど、そこに過程はない。積み重ねがない」
「……言いたい事は、何となくわかるよ。つまりは」
「私がここにいることは、意味がないことになる。それって、悲しいことだと思わない?」
「……」

 彼は黙りこみ、再び思考の渦中に戻ることにした。
 現実を作ること。それは、本当に悲しいことなのかもしれない。そして、積み重ねのない現実に、意味はない。
 だけど。
 窓越しに空を見上げる。
 青々と広がる雲ひとつない空。
 たとえ意味のないことだとしても、もしいきなり空を飛べたとしたら、どれだけ気持ちがいいのだろう? 想像すら出来ない。
 何故なら、外の世界を飛び回ることなど、彼は知らないから。だから、想像出来ない。

 知ってみたい。

「僕も、そう思う。うん、それは悲しい」

 彼は、意を決し口を開く。

「だけど、やっぱり、この手で、現実を作り上げてみたい。そして、外に出てみたいんだ」

 その言葉を聞いて、幼馴染は少し寂しそうな笑顔を見せた。

「……そっか。ずっと、ここにいるもんね」
「うん、ごめん……」

 何故か知らないが、彼は謝っていた。
 そしてそれ以来会話が交わされることもなく、幼馴染は帰っていった。
 最後に幼馴染は、こう言い残した。

「でも、もしその本で病気が治ることがあるなら、私は本当に嬉しいよ。本に病気が治ることを願ってもいい」

 病室にいつもの光景、いつものシミ、そして今日から一員となった本が取り残される。



 夜。
 本が、彼の手によって開かれた。
 最初の一ページは、まだ真っ白だ。

 ペンを手に取り、彼は今日一日の出来事を反芻した。
 この本を渡した女性とのやりとり。
 寂しげな幼馴染との会話。
 全て脳裏に蓄積されて、今彼がしようとしていることに様々な意見を与えていく。

 現実を作り、外の世界を知る。
 今の現実を生き、積み重ねを継続する。

 ともに、大事なことだと思う。
 だけど、両立は出来ない。
 たとえ、積み重ねてきたものの継続される現実を作り出したとしても、自分が知る範囲でしか積み重ねがないのだから、それ以外の範囲では、断絶された世界になる。一部分が断絶しているのだから、いつかは全ての情報も、つながりを持たなくなる。

 彼は手にしたペンを見やった。
 今まで様々な世界を作り上げてきたペン。このペンに意志があったなら、しゃべることが出来たなら、彼にどんなことを言ってくれるのだろう?

――意味はない、か――

 苦笑。
 それが引き金となって、ついに彼はペン先を本の真っ白な一ページ目にぶつけだした。

 彼が選んだ作りたい現実、それは、今の状態をちょっとだけ変えた現実だった。
 彼をこの地に縛り付けてきた原因。白血病。
 それにかかっていないときに送ることが出来たであろう、生活。それを彼は書くことにした。
 しかも、日記形式で。
 しかも、たった一日。今日あったかもしれない出来事を綴る、という形で。

 引き金は、幼馴染が残した言葉だった。

「でも、もしその本で病気が治るなら、私は本当に嬉しいよ」

 よく考え……なくとも、病気さえなければ自由闊達な生活を満喫できるのだ。そしてそれこそが、望むべき現実なのだと彼は認識していた。

 書き終えてすぐに現実となるだろうと彼は思っていたが、残念ながら少なくとも書き終えた時点では、現実とはならなかった。
 ふう、と空溜息をつき、窓の外を見やる。
 見える月は、三日月だった。


 翌日になっても、日が再び昇っても現実は変わらない。
 月が満月へ近づこうとも、本が力を発揮することはない。
 彼はこの時点で、本には現実を作り上げる力がないと考えることにした。
 世界の循環を壊せるものなんて、あるはずがない。
 諦めにも似た気持ちは、逆に彼に、本に話を、現実とは異なる現実を書かせる原動力となった。

 一日、また一日と、架空の日記は本に刻まれていく。

 二日ぶりに見舞いにやってきた幼馴染とは「やっぱり現実を作るなんてありえないよね」などといって茶を濁し、本とは別に書いた小説を見せるいつもの光景を繰り広げるだけだった。別に、二人の距離に変わりもない。縮まらないし、遠ざからない。

 そして、架空の日記をつけ始めて七日目の夜。
 七日目の日記を書き終えて眠りについた彼は、とある夢を見た。
 本が勝手に開き、書き込んだ文章が紙から飛び出し、踊りだし、彼の身体を包む不思議な夢。身体が浮き上がり、周囲は激しい音をたてていく。それは、まるでセカイが作り変えられていくような、激しく重厚な音だった。

――何かが、変わっていく――

 夢の中で、溶けていく思考の中で、彼はそれだけを感じ取っていた。



 ジリリリリ。
 ジリリリリ。

 目覚ましが鳴り響き、彼に起床時間であることを知らせる。
 特に朝が弱い、というわけでもない彼は苦もなく起き上がり、けたたましい音を放つ目覚ましを止めて一つ伸びをした。
 カーテンを開け放つと、そこには青い空が窓枠に切り離されて四角いキャンバスを作り上げていた。

 いつもの朝。変わらぬ日常。現実。

 手早く制服に着替え、階下へ下っていく。リビングでは既に母親が朝食の準備を終え、テーブルにはトーストとスクランブルエッグ、そして牛乳が並んでいた。

「おはよう」
「おはよう」

 母親、そしてコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた父親に朝の挨拶をする。
 席についてトーストにマーマレードを塗り、端のこげた部分から喉の奥へと流し込んでいく。といっても、決して早食いというほどでもない、最低限の早さではあるのだが。
 朝食を食べ終えて身支度を整える頃に、チャイムが訪問客を告げる。
 時計を見ると、いつも幼馴染が迎えに来る時間だった。
 慌てて鞄をつかみ、玄関のドアを開ける。

「おはよう」
「うん、おはよう」

 小中高と全く一緒の学校に通っており、昔から続く習慣である二人での登校は、今日もまた続く事となる。

 二人で、学校までの道のりを歩き始める。高校は、同じ町内で歩いて10分もかからない場所にあった。途中坂があるわけでもない平坦な道を、会話しながら進む。

 ふと、会話が途切れたときに彼は空を見上げた。起き抜けに見たときは快晴のように思えたが、よく見ると小さな雲がいくつか浮かんでいた。
 一、二……全部で十三。奇遇なことに、今日の日付と一致していた。

 十三という数に何かしら因縁を覚えたところで、ふと既視感が彼を襲う。

――何かが、十三個だった気がする――

 そんな奇遇はもういらない、彼は幼馴染に隠れるように苦笑。しかし、何かしら脳裏にひっかかり、決して消えようとはしてくれない。
 もう一度空を見上げる。
 空の色は、こんな色だっただろうか?

「なんか、ね」

 隣を同じ速さで歩く幼馴染に声をかける。

「今日は、何かが始まる日のような気がするんだ」
「始まり?」
「うん、僕もよくわからないけど」

 よくわからない、というのは彼の本心だった。何故か、始まりという言葉が口をついて出てきたのだ。だが、彼は気にしないことにした。
 幼馴染の返答は、というと。

「もし始まりの日だったとしたら、13日が始まりの日って、少し縁起悪いよね」

 的が外れた返答だった。


 日付がめくれ上がっていき、彼が始まりを感じた日からちょうど一週間がたっていた。その間、とりたてて何も起こらず、平和な学校生活を過ごしていたのだが、七日目はそうはいかなかった。

 朝。彼の家の今にある電話が、この時間にしては珍しく鳴り響く。受話器を取ったのは彼の母親。最初はええ、ええ、といった生返事しか返していなかったのだが、次第に話す内容、そしてトーンが重くなっていくのを彼はトーストをかじりながら横目で観察していた。「わかりました、翔に伝えておきます」という締めの言葉で受話器を置いた母親は、彼に深刻そうに告げる。

「未来ちゃん、朝方盲腸で緊急入院したんだって」

 彼の手からトーストが零れ落ちそうになる。

「盲腸……?」
「ええ、すぐに手術を受けて、命に別状はないらしいわよ」
「よかった……」

 溜めていた息を深々と吐き出し、安堵を全身で表す。

「学校の帰りにでもお見舞いに行ってあげたら?」
「うん、そうするよ」

 その言葉から、彼は朝食を食べることを再開した。



 放課後。朝言ったとおり、彼は幼馴染の入院している病院へと向かう。途中、八百屋で季節外れなのにたくさん置かれていたリンゴ、おそらくオーストラリア産のものを二つ買い、それを下げて病室の前で立ち止まる。

 こん、こん。

 表札を確認してから、やや躊躇いがちにドアをノックする。すぐに中から「どうぞ」という聞きなれた声が聞こえてきた。
 ドアノブを回し、開ける。彼の視界に飛び込んできたのは、青白い服に身を包みベッドに横たわる幼馴染の姿だった。

「盲腸だったって?」
「うん、即日手術で、後は回復を待つだけらしいよ」

 そんな会話をしながら、ベッドの脇に椅子を見つけ、机の上にリンゴの入った袋を置いてから腰掛ける。
 彼が何気なく目をやった窓の外には、空が広がっていた。だけどその空は、いつも外から見上げる空とは違う、少しぼやけたような、間に薄い膜があるような、そんな空だった。病室から見る空は、日常とはこんなにも違うのか、と彼は少し感心してしまう。

 病室にいる間は、彼が今日学校で起きたことを幼馴染に話す、という構図が出来上がっていた。全てを話し終えて、ふと気付くものがあった。

「何か、珍しいよね」
「何が……?」
「うん、何となくだけど、僕が学校のことこんなに話すなんて」
「そうかなあ……普段は一緒にいるから、話す必要がないだけだと思うけど」

 訝しげな表情を浮かべる幼馴染を見て、彼の脳裏に七日前に起きたことが浮かび上がる。

――既視感。きっと、これもそうなんだ――
 結論になってない結論を出してから、彼は天井を見上げた。
 そこには、十三本のシミがいつものように鎮座していた。

 いざ帰ろう、というとき、幼馴染は妙な台詞を彼に残した。

「二人で一緒に治そうね。私も、頑張るから」

 ……僕が、何を治すんだろう。当然の疑問は、頭の中ですぐに掻き消えた。


 家に帰って、夜が来て、就寝時間となる。窓の外には上弦の月が輝いていた。
 明日の予習を追え、次の見舞いの時には何を持っていこうかと少しだけ考えた後、彼はベッドに横になった。ゆっくりと、睡魔が彼の意識を蝕んでいく。重たくなる瞼、自然法則にしたがって彼は眼を閉じる。
 瞼の裏側、普段は黒だけしか写さないその場所に、ふと病院の天井の十三本のシミが投射される。
 瞼を一度開ける。自室の天井は、今年リフォームしたばかりでシミ一つない。

――どこで、あれを見たんだろう?――

 再度瞼を閉じ、ゆっくりと溶けていく中、そんなことを彼は思う。

 いつの間にか、夢の世界に陥っていた。

 そこには一冊の古ぼけた本があった。その周りで、文字の羅列が不思議な踊りを披露している。やがて、本が勝手に開き、周囲の文字達が本の中へと吸い込まれていく。そして、彼の身体が浮き上がり、周囲は激しい音をたてていく。それは、まるでセカイが作り変えられていくような、激しく重厚な音だった。

――何かが、変わっていく――

 夢の中で、溶けていく思考の中で、彼は何かを感じ取っていた。

――ああ、現実は、もう終わるんだ――

 思考の濁流。

――でも……僕は、変わるんだ。彼女が望むから――

 そこで、全てが途切れた。


――僕も、望むから――



 コンコンと、遠慮のあまり感じられないノックが唐突にドアから響いてきたのは、普段家族や幼馴染が面会に来ない午前のことだった。
 手にしていたペンを机に置き、一瞬天井を見やってシミの数―いつもとおなじ十三本だが、図らずも日付と一緒だった―を見やってから、身体をドアへと向けて彼は「どうぞ」と告げる。

 入ってきたのは、彼の見知らぬ女性だった。おはよう、と軽く会釈をしつつ部屋の中へと踏み込んでくる。

「……どちら様ですか?」

 彼は明らかに疑惑の篭った視線を女性へとぶつける。だが女性は、意に介さずといった態度を取る。

「はじめまして。私は『本を渡した者』よ」
「本を、渡した者……?」

 本、という何の変哲もない単語に、全身で既視感を感じる。そして次の瞬間、彼の手に重みが生まれていた。

「あ……」

 彼の手の上には、いつの間にか本があった。
 古ぼけた赤色の厚紙が表紙。四隅はめくれ上がり、年代物であることを示唆している。
 だが。
 不思議とその本から「経過した時間」そのものは感じ取ることが出来ない。生まれながらにして古物の称号を得ているかの如く、初めから古ぼけているのだと確信させる何かが、この本にはある。

「そう、その本を、貴方に渡したの」

 女性は淡々と、しかし力ある口調でそう告げる。彼には本を受け取った記憶が全くなかった。

「はあ……」

 彼はあいまいな返事を返す。それからもう一度本を凝視する。
 わかるのは、不思議な本、ということと何かが本から彼の身体へと流れ込んでいる、ということだけだった。
 流れ込む、ということを意識すると、何故だか様々な想いが、本を伝わって脳裏に飛び込んでくる。

――でも、もしその本で病気が治るなら、私は本当に嬉しいよ。本に病気が治ることを願ってもいい――

――二人で一緒に、治そうね。私も、頑張るから――

――僕も、望むから――
 渦を巻いていた思考が、一つに収束する。

――ああ、わかった。僕が本当に望む、現実は……――

「病気と、闘う。彼女と、一緒に。目を背けず」
「そう、いい心がけね」

 彼は何故だか、初対面の女性にそう宣言していた。まるで一つの現実を見せ付けられた上での決心を伝えなければ、全てが始まらないように思えていた。

「わかっていたけど、逃げていた。彼女は、僕が少しでも元気になることを望んでいたのに、僕は現実から目を背け、願望を抱くことにだけ力を注いだ。でも、それじゃだめなんだ。何も生まれない何も始まらない。僕が望まなければ、進めないんだ。それを……この本は教えてくれた」

 本を手に取る。
 彼は、全てを思い出していた。
 今は三回目の現実。一回目も二回目も、今とは違う世界。
 だけど、どこでも彼女は彼のことを想っていた。

 彼女と一緒に、もう少しだけ生きたい。
 これが、彼の望む現実。

「貴方にとってのその本の役目は、もう終わったわ。次は、貴方が本を渡す者になる番よ」
「はい」

 力強く頷く。

「じゃあ、厳しいとは思うけど闘病生活頑張って」

 くるりと振り返り、女性は病室を出て行く。
 結局名前を知ることはなかったが、知る必要もなかったんだと彼は理解した。
 何故なら、彼女は彼にとって『本を渡す者』以外の何者でもなかったのだから。
 そして、きっと彼女もこの本の作り出す現実を体験してきた者なのだから。



 女性と入れ替わるように、幼馴染が見舞いにやってきた。

「誰?今の人」
「知らない人」

 彼は幼馴染の問いに即答。そしてそのままつなげる。

「決めたよ、未来。僕、病気と闘うことにする。この病気は難病で、決して治らない病気。だけどもう、逃げない。少しでも……未来と一緒にいたいから」

 その言葉を聞いた幼馴染は、顔を綻ばせている。

「うん!私も、支えるから。病気、治そうね」



 彼が何となく見上げた天井には、いつものようにシミが十三本あった。だけど、よくみてみれば、端の方に一本小さなシミも増えていた。
 変化もいいことだ。
 彼はそう思った。

――次の誰かへ、彼女と共にこの本を渡そう――

 そして、話は次の世代へ受け継がれる。
 次の、本を必要とする世代へ……