CLANNAD/合言葉はもう一度
「はあ……」
4限目の授業中。いつものように図書室にお邪魔して、ことみが本を読んでいる姿を眺めつつ、教室から持ってきた一枚のプリントに頭を悩ませる。
プリントのタイトルは『警告』の二文字だけ。中身はこのままだと卒業が危ないですよとご丁寧に警告してくださいっている。要するに、「お前次のテスト頑張れや、さもないと卒業させてやんねえよっ」ということである。
「この間のテストはやばかったし、遅刻ばっかだしな、俺。今更だけど」
自嘲気味に呟き、あまり汚れの目立たない天井を見上げる。
さすがに、高校は卒業しとかないとまずい。それくらいはわかってる。
いくら大学とか行く気がなくても、高校中退とかは話にならない。そこまで人生を投げたくない。第一そんなんだと春原よりヘタレだ、きっと。
「はあ……次のテストくらい頑張るか」
気乗りしないけどな、と本の世界に没頭している姫君に向けて付け加えるように呟く。
姫君は、未だ読書中だった。背表紙に見えるのは『相対性理論特殊による、光速状態と時間の関係』とか何とか。まったく持って意味わからん。きっと光のように早いなんちゃらとかが延々と連なっているのだろう。
考えただけで、嫌だ。
ぺらぺらぺら。手が暇だったので、恨みいっぱいのプリントをはためかせる。恨みの分だけ、いい音を奏でてくれると思うのはさすがにひねくれすぎだろうか。
「……楽しいご本だったの」
パタン、と本を閉じる音とともにことみが俺の方を向く。どうやらアインシュタインとの遭遇は完了したようだ。
「そうか、それはよかった」
変わらずぺらぺらさせながら、俺。そのおかげで、ことみの注意がプリントに注がれる。
「そのプリントは?」
「あーこれは、その、頑張って次のテストでいい点取らないと、卒業できないという警告書、というか」
「……?」
自分でも何を言ってるのかよくわからないのだから、ことみには余計伝わってないのだろう。ハテナマークが頭に浮かんでいる。
「ようはだ、次のテスト頑張れと」
「だったら頑張るの。私も教えるから」
そいつは心強い。なんたって学校一の頭脳なんだしな。
この時点ではこう思っていた。
「ぷはははは! 朋也ってそんなにやばかったわけ!? まああれだけ遅刻してたりサボったりした上にテストの点も悪くちゃどうしようもないわねー」
「……うるせえ。俺だって思ってる」
昼休み。部室に集まるなり、ことみが即ばらしてくれた。おかげで杏に笑いものにされている。
「岡崎くん、それって相当まずいような……」
「藤林、わかってることに追い討ちかけないでくれ……」
「もっと言ってやればいいのよ、椋。朋也が悪いんだし」
「ぐっ……」
正論なので反論することが出来ない。
「岡崎さん、このままだとわたしと同じになっちゃいますっ」
「……えーいっ! 部長まで言わないでくれっ!」
「あははー! いい気味ね」
「……くそう」
なんか、とことんいじめられてる気がする。少しだけ春原の心情がわかった気分だ。今度からはもっといじめることにしよう。憂さ晴らしのために。
「大丈夫なの、私が責任を持って教えるの」
遠目からその様子を眺めていたことみが、ようやく救いの手を差し出してくれる。
「そうそう、ことみにおそわりゃ、今までと同じってことはない、と思う」
「朋也、それは甘い考えよ……」
だが早くも暗雲。製造者は杏。
「ことみが頭がいいからって、朋也が頭がよくなるわけじゃないじゃない」
「ぐっ……だ、だけど要領とか出そうなところとかくらい教われば、ある程度は……」
「甘い甘い。朋也、そしてことみ、あんたたちは重要なことを忘れてるわ!」
「な、何をだ……?」
真剣に語ろうとする杏の姿勢に思わず引き込まれる。俺に同じくことみ。
「頭がいいのと教え上手は、別物よーっ!!」
「な、なんだってー!!?」
どこぞのミステリーリサーチャー並みのびっくり。そういえば、頭がいいやつが教え上手とは限らないと、何かのワイドショーでやってた気がする。
「ことみ、あんた誰かに勉強を教えたことある?」
「……一回もないの」
「ほら、ますます怪しいわね。それで留年候補生の朋也の教師が務まるとは思えないわ」
ぴしっと断言され、ことみはシュンとなる。どうやら、ことみなりに自信があったらしい。それをカクンと折られたのだろう。
「杏ちゃん、私はどうすればいい教師になれるの?」
すがるような目で杏に教えを請うことみ。傍目から見てぐっとくるものがあるのだが、気にしたら負けである。
「うっ、ことみ、そういう目はそこで気になって仕方ない彼氏に使いなさい」
「こら、余計なこと吹き込むな」
……誤魔化しがわりに俺のほうに振ったな……
「それより、ことみ。大丈夫、あたしにまかせなさい。今日の放課後、特訓するわよ!」
「特訓……?」
「そう、人に物事を教えるための特訓よーっ!!」
だだだんっ、と杏の背景に雷が落ちたのが、確かに見えた。
「って待て待て、何で特訓が出てくるんだ?」
「それはそれ、これはこれよ」
「全然答えになってないからな」
「朋也、いったい誰のせいでこうなったと思ってるの?」
「うっ……」
今回、どうやら俺に発言権は与えられていないようだった。
特訓よーおーと声をそろえて張り切る教師の教師役ならびに教師の生徒役を尻目に、肝心のところを藤林に聞く。
「なあ、杏って教えるのうまいのか?」
「そうですね……」
例の考えるポーズのまましばし逡巡して、藤林が答えを出す。
「うまいとは、思いますよ?」
「……一瞬間が空かなかったか?」
「えと、その……お姉ちゃんは独自路線が大好きですから」
それ、やっぱり答えになってないからなと俺が呟くのと、わたしあんまり喋ってないですっと部長が嘆くのは同じタイミングだった。
そして。
教えることの特訓ってなんだよ? と気付くのは遥か先のことだった。
放課後。
昼休みの話だと杏とことみは部室で特訓している、とのことなのでこっそりと様子を見に行くことにする。
特訓、と言われて気になるものがあるのだろう、藤林と部長も一緒だ。
ちなみに春原が帰り際「ゲーセンでサイバーしようぜ!」とかなんとか言ってきたが、「すまん、お前よりサイバーだから、一人でサイバーレベル上げてこい」と適当に誤魔化しておいた。自分で言っててアレだが、サイバーレベルって何だ? それに乗って「わかったよ! サイバー中級魔術師になってくるよ!」と返す春原も春原だが。
「特訓……ものすごく気になります」
「確かに……お姉ちゃんが特訓、というくらいですから……」
「……気になる、というより不安の方が正しい気がするんだが……」
誰からともなく、小声で話しながら静かに廊下やら階段やらを進む。
次の角を曲がれば部室が見える、というところで奇妙な声が耳に飛び込んできた。
『まだまだ甘いわよっ!』
『はいコーチっ!』
ゴツン。これは俺が壁に頭をぶつけた音。頭が痛い。
ズルッ。これは藤林が盛大に滑った音。足が開いてて、見る方向によってはきわどい格好。
「何だか楽しそうですっ!」
……これは部長の発言。
「待て待て待て! 今ののどこが楽しそうなんだよっ! 思いっきり体育会系のバレー漫画かテニス漫画の世界じゃないかっ!」
「そ、そうなんですかっ!? てっきり普通に互いを高めあってるのかと……」
「いや、教える教わるなのにどうして互いとか出て来るんだよ……」
部長の天然ボケと、部室の中に繰り広げられている光景を想像して頭痛が激しくなる。
「ああ、やっぱり……」
こけっぱなしの藤林はというと、やっぱり足が開きっぱなしのまま奇妙な言葉を呟いた。
「やっぱり……?」
「昨日、過去のアニメ特集という特番で、アタックNO.1が紹介されていたんです。多分それの影響を受けて……お姉ちゃん、実際に『この世界よ! あたしが求めていたのは!』とか握り拳作って叫んでたし……」
「杏、わかりやすすぎるぞ……あと藤林、いい加減立ったほうが自分のためになると思う」
俺の言葉を受けて慌てて立ち上がる藤林はさておき。
どうにもこうにも始まらないので、とりあえず悟られないようゆっくりと、慎重に部室に歩み寄る。
「やっぱり、ドアはそっと開けたほうがいいんでしょうか? 二人の邪魔になるといけないですし」
「邪魔も何も、普通に開けたらあの世界に引き込まれそうだからな……じゃあ、開けるぞ?」
こくりと二人が頷くのを確認してから、そっとドアの取っ手に手を掛ける。
中から聞こえてくるのは奇妙な言葉の連続。先程の叫びとは違い、こちらはドアを通してだと聞き取りにくい。
このドアを開けた先には、果たして……
俺は、静かに、そしてわずかにドアを開けた。
「はいもう一度!」
「はいもう一度!」
「はいもう一度!」
「はいもう一度!」
「テキストー開いてー」
「テキストー開いてー」
「よく出来ました!」
「よく出来ました!」
……ドアを開けた先には果たして、コメントしにくい世界が広がっていた。
「これ……どう見ても何処かの英会話のCMだよな?」
「そうですね……ああ、お姉ちゃん先生役になりきってます」
「ことみちゃんも、笑顔が素敵ですっ」
「いや、注目するのそこじゃないからな……」
呪文のように言葉を繰り返し唱える杏。ことみはというと、よくわからない養成ギブスみたいなものをつけながら、笑顔でそれに続く。
英会話CMの世界よ、もう一度。
「……見なかったことにしよう」
「……そうしましょう」
「え、何でですかっ?」
「部長、知らなくてもいい世界があるんだ……だから、さよならっ!」
俺はドアを締め切った。そしてそ知らぬふりをしてそのまま教室に戻り、藤林・部長と談笑しつつ、二人が特訓に飽きるのを待つのだった……
その間も、ことみが妙なギブスを付けて動きを制限されながらも、杏に笑顔を向けてはいもう一度っと叫ぶ姿が瞼の裏に焼きついて離れることは無かった……
大分飛んでテストの結果発表後。いつものように部室。
「朋也―テストはどうだったのよ?」
にやついた顔を見せつつ、杏が俺に結果を聞いてきた。
「ん……ほら、どうにか免れた」
ひらひらと結果の書かれたプリントを杏に見せると、途端ににやつきから驚きに表情を変えてくれた。
「へえ……あたしがことみを特訓した賜物ね」
「いや、違ってほしいんだが……もうあれは、いやだ」
大きく被りをふって、ことみから教わっていたときのことを思い出しては、記憶の片隅に投げ捨てていく。
「何度間違えても笑顔で『はいもう一度』って言われるのは、相当きつい……」
「だから効果があるんじゃない」
「嫌だ、あれは地獄だ……」
「だったらこれからはちゃんと勉強することね」
「ああ……」
頭を抱えつつも、次は自力で頑張ろうと心の中に誓うのだった。
「朋也くん、次も教える?」
「いや、どうにか頑張る」
「そう、それは残念なの……」
本当に寂しそうに呟いた後、ことみはこう付け加えた。
「私、はいもう一度ってポーズを付けて言うのが気に入ったから、もう一度言ってみたかったの」