>TOP >ss >detail

パルフェ/いつかと同じ空の下

  ――8月1日午前10時32分 晴れ――
  ――車窓の先には、真っ青な空がある――



 ブレーキングによる慣性の法則と車掌の停車アナウンス、さらにはポイント転線のゆれで、、うとうととしかけていた意識が眠りから現実へと引き戻される。

「もうちょっとかかるんだから、寝てたら?」
「ん、もう大丈夫」
「どうせこの後疲れることになるんだから、眠っていたほうがいいんじゃないの?」
「……あとどれくらいだっけ?」
「三十分くらい、かな」

 腕と共に背筋を伸ばそうとして、自分の膝の上に乗っかっている存在に気付き、腕だけのストレッチにとどめる。

「変わろうか?」
「いや、大丈夫」

 今動かしたらかわいそうだし、と付け加えつつ、そのてっぺんをぽんぽんと軽く叩く。
 何気なく窓の外を眺めると、伊豆の方へ向かう特急がホームの反対側へと停車しつつある光景に出くわした。どうやら今乗っている電車をこの駅で追い越すようだ。

「こんどはあれに乗っていこうか?」
「あっちは小田原とか熱海に行く人用。海じゃなくて温泉にする?」
「それもいいけど、まだ海の方がいいんじゃないかな」
「……間違いないわね」

 そうこうしているうちに特急は過ぎ去り、やがて乗っている電車もゆっくりと動き出す。カタンコトンと下から聞こえてくるリズムが、再び睡魔を呼び出してくれた。

「……ごめん、やっぱりちょっと眠る」
「そうしなさい。同じように体力温存しておかないと、もたないわよ?」

 まったくだね、と呟いて、目を閉じる。この後待ち構えているであろう出来事を先に予想して、ただ単純に楽しみだけが心を支配していく中、俺は眠りへと落ちていった。



 ――夏の海まで、あと少し。






  ――8月1日午前11時10分 晴れ――
  ――夏空はいつだって、真っ青なのだ――



 駅に降り立ったとたん、むわっとした独特の潮の香が鼻腔を刺激する。耳をそばだててみれば、微かに潮騒。湘南の西外れで、山に迫られた場所に位置するこの場所は、海水浴のメッカである江ノ島・大磯といった地域よりも若干遠いために、夏場でも平日ならば人が少ない。穴場のスポットなのだ。
 もちろん、俺たちだって泳ぎに来ている。海で泳ごうと思わない限り、二時間かけて来るわけがない。長時間座っていて凝り固まった首や肩を回しつつ、海に来たぞ感を無理やり高めてみたりする。

「……あっついわね」
「まあそりゃあ夏だし」
「暑いって分かってて、どうしてみんな外に、しかも日差しを遮るものがない浜辺に行きたがるのよ」

 無理やり高めてみた満足感を、あっさり下げてくれる声。

「あのさ、どうしてこう気分がのってきたところをあっさり覆すんだよ」

 少し肩を落とし、やれやれとかぶりを振ってから後ろを振り返ると、いつもの通りの表情。

「でも事実は事実」
「いや、まあそうだけども」

 いつも見せる、やれやれとした表情を浮かべながら、里伽子が小さくため息をついていた。

「いいだろ、たまには青春謳歌したって」
「もう青春なんていってられる年齢じゃないでしょうに」
「いいや、八十年ちょっと前の人はこういった。『青春とは、心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ』」
「……仁、今回のとそれがどう関係あるのよ」
「ごめん、言ってみただけ……」

 ついつい勢いで言ってしまうと、夏なのに冷たいと明らかに感じられる視線が飛んでくる。しばらく射抜かれるように立ちすくみ、冷や汗を流したところで、不意に顔が綻ぶ。

「もう、しょうがないなあ、仁は」

 ……どうやら、里伽子のほうも言ってみただけのようだった。右手を取り、海への道を一歩二歩。

「ちょ、ちょっと急に歩かないでよ」

 さっきまで言葉の節々に含まれていた角も取れている。そのことに気付いて安心し、歩みを進めていく。

「どうする? 時間早いけど、先昼飯食べとくか?」
「いいわ、先に海行こうよ。どっちも逃げないけど、どうせだったら夏のものを先に楽しみましょ?」
「……なんだ、ちゃんと楽しみにしてるんだ」
「そりゃあね。仁と海に来るなんて久しぶりだし」

 一歩二歩と進むにつれ、波音が確かに聞こえ出し、海の家からのにおいも届きだす。



 ――海はもうすぐそこだ。






  ――7月30日午前10時29分 晴れ――
  ――見上げた夏空は、どこまでも青く広がっていた――



「えっ、海に行く?」

 最初に声をかけたとき、夏海はきょとんとした表情のまましばらく固まっていた。

「……おーい、夏海?」

 目の前で手を振る。無反応。
 ……珍しい。普段は非常に冷静なイメージを抱かせるタイプなのに、今の夏海はソレと完全にかけ離れていた。

「あ、ああごめん、でなんだっけ?」
「いや、だから海に行かないか、って」
「誰と?」
「俺と」
「まとめると、明後日、高村はあたしに一緒に海に行かないかと誘ってるわけね」
「まあ、あいつらと一緒だけどね」

 指を指した方向には、笑顔でこちらを見ている男女混合グループ。それを見て夏海は一つ、深いため息をついてくれた。しまった、こういうの嫌いなタイプだったか。

「あ、悪い、こういうの嫌いだった?」
「いや、そうじゃないけど……」

 そうじゃないけど、と否定する言葉の割には、こちらを見る視線には非難の色がちょっぴり混じっている。このまま誘い続けるべきか否か思案したところ、夏海がいた方が個人的に楽しいという結論が出てきてしまったので、自分ながら珍しく、ちょっとばかり強引に押してみることにした。

「一緒に行こうぜ。みんなでわいわいがやがや浜辺で騒ぐのは楽しいしさ」

 ……さすがに、夏海といるのは、なんてことまでは言えなかったけども。
 しばし逡巡する様相をみせ、そして顔をちょっぴり伏せて何事かをぶつぶつささやいた後、夏海は俺の方を向いて、こういうのだった。

「もう、しょうがないなあ、高村は」

 まだ出会って数ヶ月だというのに幾度も聞いたフレーズ。
 それは、夏海のちょっぴり素直じゃない肯定の言葉だった。



 ――真夏の海が、俺らを待ち構えていた。






  ――8月1日午前11時28分 晴れ――
  ――空の青と海の青が、俺らを待ち受けていた――



「……幾度となく見られてるとはいえ……」

 海の家で荷物を置くスペースを借り、一息入れたところで荷物から水着を取り出し、着替えのスペースへと向かう。よくある海の家の着替えスペース同様、簡素に作られたそれは、なんというか、非常にぼろっちい。

「普段着じゃなくて水着、となるとなんか恥ずかしい……」

 一人だけが入る設計になっているので、一つの区画は非常に狭い。その狭い中に、俺と里伽子は連れ添って入っていた。無論、ソーユーコトをするため、ではない。

「ほら、脱がせるからじっとしてて」

 前に回りこんで、白いブラウスのボタンを上から一つずつ外していく。
 リハビリ中の里伽子の左腕は、まだ動かない。服の着脱は俺の仕事であり、それが水着になったところで変わりはしない。
 そのままスカート、ソックス、ブラジャー、ショーツとするりするりと脱がしていく。本当だったら男が女の服を脱がしていくという行為は少なからずアレだろうけど、さすがに一年以上やっているとこの部分だけでは何も感じない。この部分だけでは。さすがに裸をそのまま見入ってしまうとダメだけど。
 なので、水着を手に取り、すばやくつけていく。先に下、次に上。
 色は少し濃いブルー。この間一緒にデパートに行って選んだビキニタイプの水着。色は苗字に合わせて、だったりする。
 里伽子に水着を着せ終わったところで、今度はさくっと自分の支度をする。とは行っても、下に水着を着込んであるので、仕度は脱ぐだけ。男の準備なんてこんなものだ。残っていたジーンズを脱いでたたもうとしたところで、こちらをジト目で見やる里伽子の視線に気付いた。

「どうした?」
「……仁、わざと言わなかったでしょ」

 ギクッ、と反射的に動きを止めてしまう。

「やっぱり。まあ先に着ておけばよかったことに気付かなかったあたしもあたしだけど」
「……一回、水着を着せてみたかったんだ……」

 こうなったら仕方ない。素直に心情を吐露して反応をうかがうことに。

「もう、しょうがないなあ、仁は」

 ……いつもの肯定を意味する言葉。だけど、顔はちっとも笑ってやいなかった。



 ――それでも、真夏の空と海が、俺らを待っている。






  ――8月1日午前11時45分 晴れ――
  ――まっさらな砂浜は、どこまでも続いていた――



「ねえ」
「……」
「……変、かな?」
「……」
「ちょっと、高村?」

 二つ目の夏海の呼びかけで、少し飛んでた意識が現実世界にカムバック。

「あ、ああ、うん、変じゃない」

 寝起き気味の頭と化して、ロクな言葉が出てきやしない。

「そ、ならいいけど」

 それだけ言い残して、夏海は他の女友達のところへと行ってしまう。夏海が十歩以上はなれていったところで、ようやく頭が回りだしてくると共に、気の利いたこと一ついえなかった自分を猛省する。
 どうやら、彼女の着ていた白のビキニが、思った以上にいろんなところにダメージを与えたようだった。思った以上に、割と大胆なタイプなのだろうか。

「……女性陣、思った以上にすげえな」

 横にいた友人も、嘆息と共に感想口上。確かに他の女の子も、普段講義室で会うときのイメージを覆すように、あでやかな夏の色に染まっていた。

「だけどさあ、夏海って思ったより大胆なのな。まさか白ビキニなんて。普段のクールっぷりからは想像できねえ」

 別の友人から出てきたのはこんな言葉。

「どうよ、高村?」
「え、ああ、うん」

 続けての振りに、あいかわらず上手く答えられない病が発病し、単なる相槌で終わってしまう。そのまま他の面子同士での会話に移っていったところで、一人残される形となった俺は、変わらず女性陣と一緒にいる夏海の姿を眺め続けていた。
 夏のおかげか、浜辺のおかげか、はたまたその水着のおかげか。普段より開放的で明るい様子の夏海が印象的だった。



 ――夏の太陽が、赤く染め上げていた。






  ――8月1日午後1時39分 晴れ――
  ――波の音は、変わらずに奏でられていた――



「ふう、さすがにあれだけ海にいると疲れるわね……」

 海の家の畳間に座りながらそう言う里伽子は、言葉の割には楽しそうな表情をしている。海の家特有のちゃちい焼きそばをその口元と自分の口元に交互に運んで、楽しさと時間を共有。

「なんでこういうとこで食べるものって、大しておいしくないはずなのにおいしく感じるんだろうな」
「それは……やっぱり、楽しいからでしょ」
「……だな」

 焼きそばを半分とフランクフルトを一本ずつ食べたところで、二人して畳にごろんと横になる。普通この時期だったら海の家は人でごった返しているはずだが、ここはそれがない。そうでなけりゃ、横になんてなれやしない。
 右腕を動かすと、里伽子の左腕に出くわす。そのままそっと腕をとり、左手とセットで丁寧にマッサージを施していく。
 まだ何も感じないはずなのに、里伽子はくすぐったそうな、それでいて気持ちよさそうな顔をしていた。

「腕、動くようになるかな」
「当然。こうやって俺が解きほぐしてるんだし」

 それに……もう『左腕が戻った状態』を感じられてるんだし。
 俺と里伽子が望む結果は、もうすぐそこにあるはずだから。
 冬のあの日見た、里伽子が左腕で赤ん坊を抱えている姿が。

「また、来ようね」
「ああ、もちろん」

 寝転がったまま肯き合い、少しだけ、口付けを交わす。
 ソースの味がしたのは、ご愛嬌ということにしておく。



 ――いつかと同じ、真夏の空の下にいることを夢見て。






  ――8月1日午後4時21分 晴れ――
  ――車窓の向こうには、いつか見たものと同じ、夏の空――



「ふふっ、夏海はすっかり眠っちゃってるわね」

 里伽子の言うとおり、俺の膝の上には砂浜で遊び疲れたわが子がぐっすりと眠りこけていた。頭や顔を触っても、何の反応も示さない。

「そりゃあ、あんだけ泳いで遊べばこうなるよなあ」
「仁も付き合わされて疲れてるんじゃない?」
「まあ、俺もそうだけどさ、旧姓夏海さんも疲れてるんじゃないでしょうか」
「それは、ね……」

 お互い顔を見合わせて、くすりと笑う。それからそっと、里伽子の方を抱き寄せる。

「俺たちも夏海みたく寝ちゃおう。まだ新宿まで四十分くらいあるし、明日はまた仕事だし」
「そうね……じゃあ、お言葉に甘えて」

 肩に重みが掛かりだす。顔を覗き込んでみると、すでに里伽子も軽い寝息を立てていた。

「……あれだけ夏海に連れまわされたら、そりゃそうか」

 一人苦笑し、二人と同じように目を閉じるとすぐに、睡魔が眠り薬を携えてやってくる。
 夢へとまどろむまでに、まず先に、最初里伽子と海へ行ったときの光景が目の前に現れた。
 次は、二人っきりで来て、海の家で寝転がっていたときの光景。
 そして、つい先ほどの、親子三人で遊んでいた光景。
 同じ場所、同じ空の下で紡いだ三つの思い出は、確かに全て繋がっているのだ。

「また来よう、な」

 最後に小さく呟いて、俺も二つの重みを味わいながら、眠りの淵へと落ちていった。