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一次/Re-

 ――終わりは、始まり。始まりは、終わり――

 始まりがあれば終わりがあり、終わりがあれば始まりがあり。
 終わらず繰り返されるのは、矛盾しているけど、これだけ。



 目が覚める時、人は大抵何も考えることの無い無思考状態となる。ただ、目が覚めたことだけを認識し、それ以外の意識やら感覚やらは一瞬シャットアウトされる。
 しかし、これはあくまで一瞬である。直ぐに脳が活性化し、五感があらゆる情報を告げてくれる。
 裕季も例外なく、目が覚めた時それ以外のことについて考えたりはしなかった。そして、徐々に頭の中が動き出して、事実にたどり着く。

 自分が今目が覚めた、ということは。

「う、ううっ……くぅっ……」

 がりがりと音を立てて頭の中が動き出す。目を瞑る前に何があったのか、どうして自分がこんな場所――チューブなり何なりを身体に取りつけられ、周囲をわけのわからない機械に取り囲まれた部屋、ICU――にいるのかを、徐々に思い出していく。



 裕季はいわゆる『劇症肝炎』を患っていた。通常の肝炎と異なり劇症型では肝細胞の破壊が広範囲に起こるため、自然治癒による細胞の再生を待つのは困難で、早期に適切な治療を施さなければならない病気である。主な治療法としては、損なわれた肝機能を人工的に補助(主に老廃物の除去など)して他臓器に影響が出るのを防ぎつつ肝細胞の再生を待つ方法がある。多くの場合この治療法によって完治するが、一部の症例では肝機能が回復されないことがある。その場合は肝臓の移植手術を受けることになる。裕季の場合、この一部に当てはまる状態となってしまった。
 肝臓の臓器移植は二パターンあり、一つは親族から生体間移植を受ける方法、もう一つはドナー登録していた脳死者からの移植を受ける方法である。日本の場合、脳死者からの臓器移植を可能にする臓器移植法が施行されたのは1997年10月とまだ月日が浅いため、主に親族からの生体肝移植を受けることが多い。
 裕季は、姉の和葉から提供を受けることとなっていた。血液型は一致、肝臓のサイズも適合、移植後の拒絶反応の程度を決める重要な要素である白血球のHLA抗体も性別が異なる姉弟間であるにもかかわらず一致していたため(つまりは父親側の染色体組が共に一致していたという天文学的な確率である)に、移植手術は高い確率で成功すると思われていた。

 しかし。悲劇が起きる。

 数ヶ月の移植準備期間を置いて、いざ移植手術の前日。
 和葉が脳内出血により倒れた。原因は不明、今までの裕季の介護・移植準備のための各種措置・翌日が移植当日、などのストレスからくる急激な高血圧による出血、とだけ推測された。移植のために入院しており、かなり早い段階で看護婦が気付くことが出来たが、出血箇所が内部であり出血多量で血腫も大きかったため、内科的療法は間に合わず緊急手術も途中で断念、この時点で和葉は回復する見込みが全く無くなっていた。すなわち、死以外に辿る道は無かった。
 だが、奇跡的なことに――この状態で奇跡、という言葉を使うのはあまりにも不謹慎であるが――手術を断念した時点では、まだ他の内臓に影響が出ていなかった。そして、和葉はドナーカード登録をしていた。
 医療チームと姉弟の両親が話し合って、和葉の脳死判定を実施することとなった。厚生省脳死判定基準により2回の脳死判定を経て、脳死と診断。すぐさま、脳死者からの臓器移植へのプロセスが組まれることになる。
 和葉がドナー登録していた臓器は心臓・肺・腎臓・膵臓の4つ。この時点で本来なら裕季への肝臓移植は出来ないはずだったが、生体肝移植を行う予定だったこと、ドナー登録時に和葉本人が『肝臓を登録しなかったのは万が一のとき弟にあげるため』と家族・医師に伝えていたことから、肝臓は裕季に移植されることが決定。登録された4つの臓器についてもレシピエントが決まり、移植にともなう臓器の摘出が始まる。
 医学的理由により、結局心臓と肝臓以外の臓器移植は見送られ、肝臓は同じ病院の裕季に、心臓は心臓移植認定病院の一つに送られ、それぞれで移植手術が行われた。
 移植手術は、両方共に無事終了した。

 肝臓のレシピエントである裕季には、和葉の脳死判定の直前で事故と裕季への臓器移植が実施されることが伝えられた。裕季は姉の死を理解するもなく、知らされて約13時間後に移植手術を受けた。
 術後、麻酔が切れてICUで目が覚めたところで、ようやく裕季は何があったかを理解することが出来た。
 理解するとは、つまり『姉が死んで、彼女からの臓器移植を受けた』ということになる。

「……っ……」

 麻酔が切れたばかりな上に、絡みつく管に邪魔されてなのでゆっくりと腕を動かして、裕季は腹部の切開部分の近くに手を当てた。
 肌の内側にあるのは、和葉の肝臓。本来の持ち主は、もう生を失っている。

「ね、ねえちゃ、ん……っ……」

 術前、世界が回る早さについていけず、行き場のなかった悲しみが急速に裕季を包む。

「う、あ……うぁぁぁぁぁっ……」

 ICUに嗚咽が響き渡る。傍に居た看護婦たちは何事かと慌しく動き出すが、裕季はお構い無しに泣き続けた。



 そんな、彼が体験する出来事の終わりにして、始まり。
 始まりは、終わり。

 ――present――



――before――

 考え、悩むことは日課になっていた。
 俺たちは、確かに繋がっているのに、本当は認められない。不確かな存在。
 「怖いよ」と直接本人に伝えると、「うん、怖いね」と返ってくる。
 自分たちもわかってしまう、脆いつり橋の上を俺たちは渡っている。

「でも、怖いけど、進みだしちゃったもん。戻る?」
「戻らないよ。進みだしちゃったし」

 きゅっと、手を繋ぐ。触れ合う部分に熱が篭る。
 麻薬のように強烈な快感――というよりは麻痺を脳髄に与えてくれるソレは、同時に凶悪な依存性も持ち合わせていた。辛くなるたびに服用しては逃避し、海におぼれ、また取り込む。エデンの林檎より性質の悪い、禁断の果実。
 見晴らしのよい、誰もいない丘で二人、手を繋ぎあって途方に暮れる。先にあるモノがわかっているのに進みだしてしまった自分たちは、どこに辿りつくのだろうか。どこにも、辿りつけないのだろうか。

 不意に、遠くの空で円を描いて飛んでいた鳥たちが、街並みから聞こえてきた夕焼け小焼けの歌を合図に住処と思しき大木へ寄り集まってきた。

「私達も、帰ろうか」
「うん、そうだね」

 立ち上がって交わすキスはここに来たときだけ許される習慣。

 実の姉との口付けは、やはり禁断の果実よりも甘いんだろうなあ、と思った。

 ――and,now……――



 ――うつつ、ではなくて――

 夢はニセモノ、現はホンモノ。
 始まりと終わりがあることしか、共通点はない。



 窓際に置かれた観葉植物が、風を受けて小さく揺れる。植物、とはいっても偽物の観葉植物、柔らかいプラスチックなどで出来たアレである。
 本物は置けないけど、偽物でも緑色が部屋にあれば少しは安らぐのでは、と和葉が買ってきたものだった。

「これなら水遣りもしなくてすむでしょ?」
「まあ、ね。虫も寄ってこないだろうし」
「わからないよ? 本物と勘違いしてやってきちゃうかも。ほら」

 少しだけ満足そうに、和葉は偽物の葉を撫でた。細い指に踊らされて、風を受けた時よりもじれったそうに葉が揺れる。

「見た目だけで無くて触った感触も本物に近くなってるし」
「そうかなあ……」
「最近のはすごいんだって。裕季も触ったらわかるよ」

 自信たっぷりな様子で和葉が観葉植物を鉢ごと差し出す。裕季は苦笑しながらも、ゆっくり腕を伸ばし、葉に触れる。
 触った感触はやはり、偽物のそれだった。

「やっぱり偽物は偽物だよ」
「連れない事言うなあ……お姉ちゃん折角買ってきたのに」
「か、買ってきてくれたことはありがたいけど、何でそこで拗ねるんだよ……」
「はぁ、昔は裕季も『お姉ちゃんお姉ちゃん』ていってついて来てくれたのに」
「それ一体いつの話だよ……それに今だって勝手に買い物に連行したりするじゃん」
「いいでしょー? 姉弟のスキンシップだよ、スキンシップ」
「絶対荷物持ちがほしいだけだよな、とりあえず買い物のときは」
「失礼なこと言うなあ。私だってちゃんと荷物持ってるよ?」
「自分の私物は、だろ。買った荷物はいつも俺が持ってると思うけど」
「そんな事言ってると今度から連れて行ってあげないぞぉー」
「そんな事言って今度からたくさん買えなくなるのは何処の誰かなぁー」
「ぐ、ぐぐっ……」
「何処の誰かなぁ?」
「……ごめんなさい」
「うむ、よろしい」
「なんかなぁ、何で私が負けた気分になるんだろ」
「今回のは完全に姉ちゃんに原因があったと思うけど」
「むーっ、折角買ってきたに……」
「だから……」

 終わりの会話。一日一回、和葉が見舞いにきた時はいつもこんな感じだった。裕季が入院する前まで、家の中での二人もこんな感じだった。入院、という出来事があっても二人の間柄は変わらないらしい。
 結局、二人して面会終了時間まで同じような会話を繰り返していた。
 喋っている間、和葉は何故かずっと買ってきた観葉植物(どうやら彼女のお気に入りとなったらしい)を抱いていたが、帰る間際になってようやく窓際に置いた。

「じゃあ、今日は帰るね」
「うん」
「……ちゃんと治してね。また買い物、行こ?」
「……うん」
「お姉ちゃんも、肝臓を裕季にあげられるようにしっかり準備するから」
「……うん、ありがとう」

 和葉が帰った後、裕季は窓際に置かれた偽物の観葉植物を、じっと眺めていた。
 手を伸ばそうとしても、自由のきかない身体では届かせることが出来ない。
 仕方なく、裕季はずっと眺めていた。
 偽物の植物。フェイク。
 フェイクでも、魂は宿ってくれるかもしれない。

「姉ちゃん……」

 ゆっくりと伸ばした手は、やがて、



 はっ、と布団を飛ばして跳ね起きる。そして、自分の腕が不自然に窓の方に伸ばされているのを見て、裕季はうなだれた。
 手術から既に3ヶ月が経過していた。それは即ち、和葉の死からも3ヶ月経過したことを意味する。

「ねえ、ちゃん……」

 夢の中で最後に呟いた言葉を、裕季はもう一度現実世界で口にした。
 途端に、寂寥感に全身を襲われ、涙が流れてくる。
 ここ3ヶ月の裕季の毎朝の行動パターンは今日も当てはまった。
 夢の中で和葉と会っては、起きてから悲しみに暮れる……体調、特に肝臓の調子が上向くのと反比例するように、裕季は日に日に落ち込んでいった。

 いなくなって余計に気付く、存在の大きさ。

 医療チーム側も、裕季の精神状態が安定していないことに気付いていて、様々なフォローを入れはしていたが、どれも効果が無かった。精神状態が安定しない、ということは病気の完治――この場合は移植した臓器の安定となるが――も難しくなってしまうのだが、裕季にとっては『姉の死』は自分の身体よりも深く考えなくてはならないことになってしまっていた。

「姉ちゃん……」

 再度呟くも、返ってくる声は存在しない。ただ、窓際の偽物の観葉植物が、寂しげに裕季を見つめるだけだった。

「治ったら一緒に買い物行くって、約束したじゃないか……なのに、なんで、なんで……」

 まるで、底なし沼。落ち込んだ先の落下点は存在するのかすら不明。

「俺が病気なんかになって、姉ちゃんに心配かけた、から……姉ちゃんに、無茶な負担掛けたから……」

 落ちる距離が伸びれば伸びるほど、思考は黒くなっていく。
 誰にも、止められない。

「俺なんかが、俺なんかが……」

 自虐的な色合いが出てきても、誰にも止められない。

「姉ちゃん……そっち、行っていい?」

 肝臓の上に手を置くも返答は無い。意志とは関係なく心臓の強く脈打つ音だけが手の平に伝わる。

 窓際のニセモノは、朽ちていく悲痛な叫びを拾い集めるだけしか、出来なかった。



 終わることがなければ、始まることはない。
 ニセモノの終わりでは、始まらない。

 ――present――



 ――before――

 それは、唐突に宣言された。

「昨日の夜、お父さんとお母さんに私達のこと、言ってきたから」
「……はい?」

 二人きりの病室。容態が落ち着いたときを見計らってやって来た和葉は、いきなり死刑宣告に近いことを述べてくれた。

「だーかーらー! お父さんとお母さんに『私と裕季は愛し合ってるのよ!』って言ってきた」
「ば、馬鹿っ! 何で一人先走ってそんなことを、つかそんなことしたら姉ちゃんが……」

 真実を隠してきた壁が、気付き上げてきた当事者の一人によって派手にぶち壊されてしまった。いつかは言わなきゃいけないことだというのはわかっていたのだが、ついこの間に自分の病気が完治したら一緒に言おうと約束したばかりでコレ。
 正直、自分の身より姉ちゃんが今現在家で置かれている立場の方が心配でしかたなくなってしまった。

「何でって……私が裕季に肝臓あげるって言ったら、お父さんが『まだ結婚してもいない娘にそんなことさせるわけにはいかない』なんて言うもんだから、つい……」
「ついじゃねえっ、っていうか、え……今、なんて」

 あまりにもさらっと言うものだからついつい聞き流してしまうところだった。
 今、目の前に居る、姉は、

「ん? 私が裕季に肝臓あげるってこと?」
「そうだよ! そんなの初耳だ!」
「当然よ。今初めて言ったんだから」

 何当然なことを聞き返してるの、とあからさまに顔に出してくる姉を見て、頭を抱え込みたくなった。

「俺に肝臓提供したら、姉ちゃんに負担が……」
「それは言わないの」

 実際に頭を抱え込みかけていた腕を掴み、代わりに和葉が彼女自身の腕で俺を包み込んでくれた。ふわりと鼻腔をくすぐる、きっと俺にしかわからない香。それから、柔らかい感触が顔に二つ。首から上は、姉全てに包まれていた。

「私は、裕季に早く治ってほしい」
「……うん」
「血縁だから、抗体とか合う確率も少し高いしね。……はは、こんなときだけは姉弟っていう関係が役に立ってくれるね」

 俺を包んでくれる、腕が、胸が、少しだけ震える。

「……父さんと母さんに何て言われた?」
「最初は、それはもう、散々なくらい、ね。」
「最後の方、は……?」
「認めてくれた。『あーだこーだ言う俺たちが悪かった。お前たちの人生は、お前たちのものなんだから、祝福しなきゃならなかったのに、な』って」
「よかっ、たぁ……!」
「うん、うん……っ」

 今まで以上に、強く抱きしめられた。俺も腕を回して、姉にして最愛の人を抱きしめる。
 両親に認められた。なら、望めなかった場所にも、辿りつくことを望める。

「だから早く治して、一緒にもう一度、お父さんとお母さんに言おう。ね?」

 痛いほど伝わってくる想い。

「うん、わかった。姉ちゃんには迷惑かけることになるかもだけど、俺、頑張るよ……」

 痛いほど伝えなければならない想い。
 双方向に行き交うものの間で、重病という状態に陥りながらも俺は最高の幸せを感じていた。

「一緒に、頑張ろ?」
「うん」

 自然と交わされた口付けは、今までとは違う甘さを含んでいた。

 ――repeat again……――



 ――失くしたモノは1つじゃあない――

 1つだって思っていたものが2つだった時。
 2つだったモノを1つにしたら、また変わる。



 裕季の落ち込み様は、止まることを知らないのかと周囲に思わせるほどだった。
 両親の励ましも医師や看護士のフォローも全く効果はなく、手術から4ヶ月を過ぎた頃にはまるで魂の抜け殻では、などと考えてしまえるほどになっていた。心配された身体への影響は、この時点までそれほど出ていない。むしろ裕季の身体自体は快復に近い状態である。既に退院も可能であった。

「姉ちゃん……」

 時折、うわ言のように呟く。返事は返ってこず、周囲は沈痛な面持ちを浮かべることしか出来ない。
 打開策が見当たらない中、医療チーム側はある提案を裕季の両親に行う。
 下された処方箋は、退院。退院によって、多少なりとも気分の転換が出来るのでは、とのことだった。当初、両親は安定しない精神状態がそのまま移植箇所である肝臓やその他の臓器に影響が出たときに困ると反対したが、肝臓が身体に定着しHLA抗体が一致していることから目立った拒絶反応が現れていないために安心できること、現段階においては身体面よりも精神面をフォローすることの方が重要だ、という医師側の説得により、最終的には両親もイエスと頷いた。

「裕季君」
「はい……?」
「君の退院が決まったよ」
「そう、ですか……」

 担当医師が退院の決定を告げても、何も変わらない。

「……このままでは、何も変わらない。それでもいいのかい?」
「別に……変わる必要なんて、ないですから。もう何も変わる事がないですし」

 医師は溜息を吐く他なかった。



 退院に伴う検査等を経て、裕季は退院した。もっとも、移植手術を受けたということで今後は通院がずっと必要になる。いつ肝臓に拒絶反応が起きるかわからず、少量で済むとはいえ免疫抑制剤を摂取し続けねばならないことと、所定の検査を行わなければならないためだった。
 だが、今の裕季にそういったものは関心がなかった。

 家の中を回っては和葉の名残を見つけ、縋って、落ち込む。
 外に出ては和葉と歩いたことを思い出し、悔やみ、沈んでいく。
 入院時より、退院時のほうが裕季にとっては辛いものとなっていた。この場合、身体的苦痛よりも精神的苦痛の方が苦しみは大きい。
 姉といた時間を思い出させる物を見つけたり、一緒に過ごした場所に行ったりしても、悲しみと苦しみしか生まれないことがわかっているのに、裕季はそれらに縋ってしまっていた。

 だから、この場所に裕季が足を運ぶのも、当然といえば当然といえた。

 自宅から2kmほど離れた小高い丘。程よい高さと整備された道、何より市街地にあるとは思えない緑の豊かさに地元の住民たちの散策場所として利用されている地である。東西南北に入り口があり、四本の道は頂上の広場へと繋がっている。広場は見晴らしの良い展望台となっており、屋根がついた休憩スペース等も用意されている。
 市民の憩いの場であるこの場所は、裕季と和葉が二人でよく訪れた場所でもあった。気候のいい時期、休日に天気の良い日は昼食を用意して日中ずっと居座る、などということが多々あった。

 二人の共通の思い出の地も、今は1人しか迎えることが出来ない。

 丘の上へ続く道を、裕季はゆっくりと歩いていく。
 一歩進むたびに、交わした会話が耳元で再生されていく。

『姉ちゃん、今日は何持ってきたの?』
『んー、今日はサンドウィッチー』
『今日は、じゃなくて今日も、だろ……?』
『いいでしょー、好きなんだもん、楽なんだもん』
『絶対楽だからってのが強いでしょ……』
『そんなこと言ってると、卵入りをあげないよ?』
『姉ちゃんじゃないんだから、食べ物で釣られないって』
『それだと私が食べ物で釣られるみたいじゃない!』
『そう言ったつもり』
『……絶対サンドウィッチあげないから』

『だーっ、もっと急げって、濡れるだろ!?』
『これ以上は無理だって、無理無理!』
『ほら、手貸して』
『え、うわっ』
『屋根の下入ればまだましだろっ? ほら早く』
『うーっ、はあ、着いた……晴れてたのが急に雨になるなんて……』
『山の天気は変わりやすいからなあ』
『ここ、山じゃないと思うけど』
『似たようなものだろ? まあしばらく待ったら晴れるって』


『おー、絶景かな絶景かな』
『言ってることが酔っ払いのおっちゃんみたいになってる』
『そんなこと言ってると、本当にお酒飲んじゃうぞ?』
『持ってきたのか……?』
『そんなわけないでしょ。大体裕季は未成年だから飲ませないし』
『別に飲まないって。まあでも、見事な紅葉だなあ。毎年来るたびに思うよ』
『だよねー……来年もまた来ようね?』
『……うん、オッケー』

 残響は、風と共に消えていく。
 まるで想い出が風化していくみたいで嫌だと思い、その後に自分が心のどこかで過去にしたがっていることに気付いて落ち込む。
 螺旋階段は、どこまでも繋がっていく。

 それでも裕季は上を目指して歩いていった。

 頂上に着くと、入院する前とあまり変わらない風景が裕季を迎えた。
 深い緑、犬の散歩をする老夫婦、木陰で寝転がる子供……
 見慣れた景色。でもその中に和葉がいない。突きつけられた現実が、裕季の心身を蝕んでいく。

 ――やっぱり、俺は……

 不意に、風が揺らめく。
 流された視線の先には、見知らぬ女性が居た。

 途端に裕季は、自身の体内がざわめき立つのを感じていた。



 2つだったモノが1つになれば、それは終わり。
 そして終わりは始まり。

 ――present――



 ――呼び声は虚しく――

 相手のいない叫び、相手に聞こえない叫び。
 声が届かぬなら、始まらない。



 丘の上で不思議な女性に会ってから、裕季の心身のバランスはますます悪
化していた。単純に精神状態が悪い今までとは違い、文字通り心と身体が額から外れたジグソーパズルのピースみたいに、バラバラになっていた。

 何故……

 種類の異なる感情、後悔や悲痛ではなく、一つの疑問が積み重なっていく。
 彼女に和葉の面影を感じたこと。中身が疼いたこと。
 見た目も端々から推測される性格も和葉のそれとは異なるのに、別のナニカが裕季に訴えていた。

 ――あの人は、姉ちゃん……?

 無論、そんなわけはないと裕季も理解している。認めたくなくても家の居間には仏壇があるし、そうでなければ、肝臓一つを丸ごと移植等ということが出来ないからだ。つまり、裕季が今生きていることこそが和葉の死を証明している。
 自身の想いを砕く凶悪な矛盾が、今まで裕季の陥っていた沼の正体だった。想いが強ければ強いほど矛盾も強力なものとなる。矛盾が強ければ強いほど、人は想いを強くする。
 ぐるぐる、ぐるぐると。

 だが。
 今は、違う。



 袖や裾の先にわずかに見える肌の色は、どこまでも透き通るような白さを称えていた。世間で流行る美白で作られた白ではなく、アルビノに代表されるような病的な白――そしてこの手の白は神秘的でもある――といったほうが正しいと思われた。
 裕季の視線が、白い手に注がれる。
 休憩所の屋根の下、並べられた丸太椅子の一つに、緩やかに舞い降りていく。
 指先から、指の腹、付け根、そして手の平と、徐々に触れる面積が増えていく。手の平全てが触れたところで、今度はゆっくりと左右に動く。丸太の表面に引っかかり、時折指が手よりも遅れて揺れていく。
 一通り手触りを堪能した後で、手の持ち主は触っていた丸太に静かに腰掛けた。

 腰掛けた彼女と、裕季の視線がぶつかる。

 一陣の風が二人の間を駆け抜けていくまで、しばらく時が硬直。
 風が彼女の長い髪を存分に揺らしていった後、彼女が先に口を開いた。

「あの、何か……?」

 聞こえてきた声は、裕季の期待していた物とは違っていた。無論、期待することが馬鹿げたことだともわかっていた。

 ――この人は、姉ちゃんじゃない。

 当たり前のことを心中でわざわざ確認するも、ざわめきは拭えない。
 目の前の女性が座っている席は、和葉が何故だか好んで座っていた席だった。

 偶々。
 偶々?

「いえ、何も」
「そう……」

 裕季がどうにか紡いだ言葉にそっけない反応が返ってくる。
 他人なのだから当たり前だろう、裕季はそう思うことにした。
 ただ、椅子に座る前の仕草、あるいは座っている椅子がどうしても和葉のことに繋がってしまい、座っている女性までもが和葉だと思えてしまう。
 そんなわけは、ないのに。

「貴方……つまらなそうな顔してるわね」

 不意に、再度彼女の口から言葉が発せられる。声色には、肌の白さに似た冷たさが潜んでいた。
 予想だにしない内容に裕季はたじろいでしまう。
 何故なら、裕季の心境をずばり言い当てていたから。

 ――姉ちゃんがいないのに、生きている意味がない――

「生きるって、いいことよ。つまらなくても、生きてることはいいこと」
「そんな、こと……」

 あるわけがない、と繋ぐのはどうしてか躊躇われた。
 どくん、と中身が波打つ。

 この世界で生きることに意味が見出せないはずなのに。

「貴方も、生きていればわかるわ」

 去り際に彼女はそう告げて、西へ向かう道を下っていった。
 西日に映えて白さがより一層際立っていた。



 生きていればわかる。
 裕季は彼女と会ってからずっと、この言葉の意味を考えていた。
 だけど、答えは出ない。
 和葉と彼女が重なることしか、理解できなかった。



 たとえ届いたとしても言葉をかみ締めてくれないのなら無意味。
 無意味なら、終わらない。

 ――present――



 ――平行線はどこまでも――

 平行線はどこまでも平行。終わらない。始まらない。
 始まり、終わるとき、ソレは平行ではなくなる。



 丘の上での邂逅は、単なる偶然だと裕季は結論付けていた。偶々和葉と似た雰囲気(何が似ているのかを説明することは出来ないのだが)を持つ女性が、偶々和葉の良く座っていた椅子に座っていた。ただ、それだけ。

 それだけのはずだった。

 あの日以降、外に出て行くと裕季はほぼ必ずと言っていいほど彼女に出くわした。しかも毎回、和葉と共に訪れた地でのことだった。最初の頃は、まるで和葉と共有した時間が汚されていくかのように感じていたが、次第に彼女がいることが自然なことと思えるようになっていた。
 裕季は自問する。いつしか自分が姉の代わりを追い求めているようになったのでは、と。
 だが心境の変化はなく――和葉がいないことで、生きる気力がなくなっている状態――、そんな中で代わりを求めようとどこかで思っているとは考えにくかった。

 とくん、と裕季の内部がはねる。
 これも出会って以来、彼女と会うたびに起こる不思議な現象だった。別に鼓動が早くなるとかの類ではなくて、身体のどこかからじわりと波が広がっていくような感覚。恋に落ちている時のざわめきとも違う。
 わからない。わからないことが多すぎる。
 でも、わからなくてもいいかと最終的に裕季は考えることにした。
 特に意味がないのだから。



 彼女と出会う回数が増えるたびに、いくつか会話を交わすようになっていた。互いに奇妙なほどに会うのだから、こればかりは偶然が積み上がった必然ともいえる。
 彼女の名は如月祐希、というらしい。年齢は裕季とほぼ同じ。おまけに、実際の読み方は違うとはいえ、共に『ヒロキ』『ユキ』と読める漢字を与えられていた。どうでもいい偶然。これすらも必然になるのだろうか。

 幼少の頃から今まで大病を患っており、ここ数ヶ月でようやく快方に向かってきた、と祐希は言う。肌の白さも、あまりにも長い入院期間が作り上げたものだった。

「外の世界は素敵。今まで見たことがなかったものがいっぱいあるから」

 3回目くらいに丘の上で出会った時(他の箇所では既に何度も会っていた)、やはり例の椅子に腰掛けて祐希は裕季に訴えた。

「そう、思わない?」
「……残念ながら」

 力なく裕季は首を左右に振る。
 感覚的に祐希の言いたいことを理解は出来ていた。病室という狭い空間に押し込められて外が何かを実際に知ることが出来なかったのだから、外に出て初めて吸収していくことが如何に楽しいかを考えるのは簡単だった。裕季も入院時は退屈だったと感じていたからよくわかる。
 だけど、今彼女の考えに同調することは出来なかった。
 外の世界も中の世界も、どこにいっても辛さしか味わえなかったから。



 一度だけ裕季は祐希に、「何故こんな場所でよく会うんだ?」と聞いたことがあった。無論、こんな場所というのは裕季と和葉の過ごした時間が染み込んだ場所を指し、祐希にはわからない言葉だった。
 どう解釈したかは不明だが、祐希は、

「さあ……私にも、わからない」

 と答えた。
 ならば今まで会ってきたのは本当に二人の偶然に偶然が重なってきた結果で、もはや運命的なものすら感じさせてしまう。
 だが、裕季は甘美な響きを受け入れようとはしなかった。これが運命なら、和葉が亡くなったことも運命になってしまう。そんな運命は彼には受け入れられなかった。受け入れられるわけがなかった。

 ――姉ちゃん……

 祐希と喋っている間にも、心の中で魔法の言葉を呟く。
 とくんっ、と内面でナニカが爆ぜる。
 ナニカが、何なのかわからない。

 わからないけど、きっとわからなくていいものだと、裕季はいつものように結論付ける。
 生きていくことに意味がないのだから。



「生きるって、いいことよ。つまらなくても、生きてることはいいこと」

 祐希は別れ際に必ずこの言葉を裕季に告げていった。まるで裕季の内面を知っているかのように。

「そのうち、つまらなくなくなるかもしれないから。私はそう思う」
「そう……」

 挨拶代わりに言って、彼女はどこかへと行ってしまう。
 裕季は毎回、相槌を打つ以外に返答することが出来なかった。
 肯定することは出来ない。
 今から目的とすべきモノが現れるとは思えない。昔以上につまらなくないモノが待ち受けてるとは思えない。

 だけど、和葉の面影が見える祐希の言葉は、裕季の中に直接入り込んできて内側から覆い尽くそうとする。何故だか、抗えない。抗うことが、大事な何かを否定するように思えてしかたがなかった。

 結局、家に帰ってきても裕季は祐希の言葉を反芻しては、そんなことない、ないけど、と壊れたラジカセのように繰り返すだけだった。

 彼の部屋の窓際では、偽物の観葉植物が窓から入り込む風を受けて静かに揺れていた。



 交わらないはずの平行線が交わってしまうなら、それは平行線としての意味をなくす。
 交わった瞬間、終わる。

 ――present――



 ――欠片はいつまでも欠片のままじゃなくて――

 細かく分かれたらそれは欠片。欠片の始まり。
 だけど、欠片を集めたら欠片ではなくなる。欠片の終わり。



 裕季がその話を医師から聞く事になったのは、偶然か必然か。

「……そうか、君は知らなかったか」

 定期の通院で、担当の医師と状況についての会話をしていたときのことだった。
 いつも通り、裕季が生き続けることに価値の見出せない状態であることを看破した医師が、ふと思い出したように話を始める。

「君はお姉さんの和葉さんから、肝臓を受け取った。これは事実だ」
「……はあ」
「そして、もう一つの事実がある。それは……和葉さんの他の臓器、心臓なんだが、それが他の心臓に重病を抱えていた人にも移植されたんだ。ドナー登録されていたことを受けて、ご両親と相談してね」

 それは裕季が確かに知らない事実だった。

「……どうして、あの時言ってくれなかったんですか!」
「……それはこちらの完全なミスだ。ご両親と話し合ったものだと思っていたんだ……」
「教えてもらっていれば、俺は反対してました」
「お姉さんは望んでドナー登録していたのに? 肝臓だけわざわざ避けて登録していたのに?」
「そ、それは……だけど……」
「……話を戻そう」

 コホンと咳払いを一つ。医師は話を続ける。

「レシピエント、つまりは患者は小さい頃から心臓に病を患っていてね。ずっと入院生活を続けていた。確か君とほぼ同じ年齢だったかな。小さい頃から今まで、ずっとずっとね。それで今回、非血縁者間では確率の低いHLA抗体の一致したドナー、つまりは和葉さんからの提供でようやく移植手術を受け、快方に向かっているんだ。外を出歩くことが出来るようになった、とも聞いている」

 裕季は黙って医師の話を聞いていた。
 話の意図がわからないということもあるし、内部で別の感情が湧き上がってくるのを抑えるのに必死だったからだった。

「今が楽しい、らしいよ。それはそうだろう。今まで感じることの出来なかったこと全てを、あらゆる感覚で味わうことが出来るんだから」

 ――姉ちゃんを、返せ。

「和葉さんから臓器の移植を受けた2人のうち、1人は今を生きることに喜びを見出し、もう1人は絶望しか見えていない。あまりこんなことを言いたくはないし、医師の言葉としては不適切なんだが、」

 ――姉ちゃんの心臓を、返せ。

「……どちらの方が臓器移植を受けたことに意義があったと思えるかい? どちらの状況を和葉さんは望んでいると思えるかい?」
「そ、れは……」

 裕季は考える。
 ……当然のように、その心臓移植を受けた患者のように、生きることに希望を見つけることを望んでいるに決まっていた。普通の人もそうだろうし、和葉の性格を考えるとなおさらだった。
 だけど、それでも。
 姉のいないセカイで希望を見出すことが、裕季には手の届かない事のように思えた。
 光のない世界で闇雲に手を振り回しても、何も掴むことは出来ない。

 ――姉ちゃんを、カエセ。

 沸々と煮立つ感情と、喉元につきつけられた『和葉の望み』は何処にあるのかという、今まで目を瞑っていたことに挟まれ、思考回路が混乱していく。

「俺は、俺は……」

 頭を抱えて蹲る裕季の肩を、医師は一度だけ軽く叩いた。

「色んなことで悩むことは、君らの年代ならまだ当たり前だと思う。だけど、人の願いや望みは、ある程度受けなければならないと私は考えるよ。押し付けがましい言い方になるが、我々やご両親は、君が生きていくのを望んで最善の治療や方策を尽くしてきた。そして和葉さんは君が快復するのを心待ちにして、自身の肝臓を提供しようとした。本来なら、生体肝移植という和葉さんにも負担がかかる方法でね。……残念なことに、別の手段での移植となってしまったが……」

 ぐわん、と裕季の中でのセカイが歪んでいく。
 和葉の死、そして移植手術後に作り上げられた世界が、バラバラのピースに分かれていく。

「君に今希望がなくても、君自身が希望になっていることだってあるんだ。和葉さんから生を受け取った君は、多少なりともその希望に沿わなければならない義務があると思う。……我々のような第三者の希望はともかく、和葉さんが望んでいたことくらいは」



 姉ちゃんを返せ。
 俺は、生きなければならない?
 俺のせいで、俺が心配掛けさせたから姉ちゃんは、死んでしまったのに?
 心臓を、奪い取る。抉ってでも、奪い取る。
 姉ちゃんが、和葉がいないのに?
 あいつは、一体何なんだ……?



 ぐわんぐわん。
 歪みに耐え切れなくなれば、細かく分かれるだけ。
 裕季は今、細かく千切れて降り注ぐあらゆる感情・思考の中に立たされていた。



 欠片になり、集まりになり、また欠片になり。
 繰り返しは、終わらない。

 ――present――



 ――澱みもいつか清流となり――

 澱んだ水は動くことを知らない。
 流れの終わり。



 医師から話を聞いた日以降、裕季はずっと家の自室に篭り続けていた。
 積み重ねた偽りと、望まれたモノと、噴出す激情とが入り混じり、自分でも理解することの出来ない混沌を形成していた。
 誰かにぶちまけたくても、ぶちまける相手はいない。
 誰かに聞いてもらいたくても、聞いてもらえる相手はいない。
 いつも受け取ってもらっていた人は、もういない。

 だけど。
 いないわけじゃあない、と裕季はようやく気付く。

 ――姉ちゃんに、聞けばいい。



 久しぶりに出た外は、夏の強い日差しが存分に降り注いでいた。肌にまとわりつく湿気が余計に不快感を覚えさせる。
 眩い外の世界を、裕季は汗も拭わず、目的地に向かって一心不乱に歩いていた。
 早く、聞きたかった。
 答えが返ってこないのはもうわかっていたのに。

 裕季の目的地は、自宅から電車で10数駅離れた場所にあった。
 ひっそりとした山間に位置する、セミの鳴き声に囲まれた墓地。裕季は今までに祖父母の墓参りに来たとき以外は来ることがなかった場所である。
 今回は祖父母に会いに来たわけではない。
 裕季は和葉に会いに来た。つい数ヶ月前に、先祖代々の墓に入ってしまった姉に。

 入院していた、あるいは和葉の死が認めがたかったということもあって、裕季はこれが和葉の初の墓参りだった。 頭の中が混乱しているからこそ、来れた。
 掃除して、線香を上げてから、裕季は墓石に刻まれた姉の戒名をなぞる。

「姉ちゃん……」

 俺は、どうしたらいい?
 聞きたかった言葉が、声にならない。

 ――やっぱり、俺、結局は姉ちゃんがいないと、ダメだよ……

 ゆっくり、裕季の身体が沈んでいく。膝が地面につき、腕は力なく垂れる。
 やがて、誰もいない真夏の墓地に、嗚咽がひっそりと流れ出した。



 しばらくして。

「……あれ……?」

 裕季の背後に人の気配と声が現れる。

「裕季、君……?」
「……祐希……」

 そこにいたのは例の謎の女性、如月祐希その人だった。白い長袖のブラウスにフレアスカートという格好は、元々墓参りという用があって墓地にいると考えるにしては不適切だと思えた。ここにいるのか裕季に理由はわからなかったが、当たり前のような気も何故だかした。

「そこ……知り合いのお墓?」
「うん、まあ……」
「そう、私にも、お参りさせて」

 よろよろとしながらも、裕季は一人分のスペースを空ける。そこに入った祐希は、深く礼をしてからしゃがみ、目を瞑って手をあわせる。
 横から同じ目線で眺めていた裕季には、祐希が和葉の墓参りをしている光景が違和感なく思えた。全くの他人なのに、おかしなことが色々あるはずなのに、それらが見えてこない。

 数分ほど拝んでいた祐希は、手を離して立ち上がる。

「ここは、貴方のお姉さんのお墓?」
「……」

 裕季はとっさに答えることが出来ない。
 何故なら、姉の墓だとは祐希に教えていなかったから。
 何もいえない裕季を尻目に、祐希は墓に向き直ってこう言った。

「私を呼んでいたのは、貴方だったのね」

 すーっと、裕季の周りを取り囲んでいた空気が急速に冷えていく。
 セミの鳴き声も、耳から遠ざかっていく。

「私の中で読んでいたのは、貴方だったのね」
「それ、どういう……」

 聞きながらも、裕季は自分の中で渦巻いていたもののうちの幾つかが、機械仕掛けのジグソーパズルのように自然と組みあがっていくのを感じていた。
 完成された絵は、もう見えていた。だけど、認めたくもなかった。

「私の抱えていた病気は心臓の病気。治療方法は、心臓の移植。心臓の移植は、脳死者からの提供しかありえない」

 白い手が、彼女のあまり膨らんでいない胸の合間に置かれる。

「ここに今埋まっている心臓は、多分、いいえ、間違いなく貴方のお姉さんの心臓」

 とくん、とくんと、またも裕季の内部でナニカが爆ぜていく。

「今まで貴方と会ってきたのも、私の中に居るお姉さんに呼ばれたから。偶然だと思ってたかもしれないけど、きっと必然。私はそう思ってる」
「そんな、ことあるわけ……」

 あるわけない、といいながらも裕季は否定が出来ない。
 移植された和葉の心臓に、和葉の意識が眠っている……?

 とくん、とくん。

「……アメリカの有名なノンフィクション作品に、『記憶する心臓』という作品があるの。難病を患った女性が心臓と肺臓の移植を受けて、自分の中に別の人間がいるような感覚を味わう話。実際、彼女の趣味や趣向は術前と変わったし、行ったことのない場所にも行ったような記憶を持つようになった……これらは全て、心肺の提供者と一致したらしいわ。この例以外にも、臓器移植を受けた人が、提供者のものと思われる記憶や思考を持つようになったという例が、学会でも報告されているの。……自分が移植を受ける側だから試しに読んでみたら、私もそうなるなんて」

 組みあがったパズルは、祐希の言葉と一致した。



 清流は動くからこそ清流となる。
 終わらない流れ。

 ――present――



 ――始まりは終わり。終わりは始まり――

 終わりがあれば始まりがあり、始まりがあれば終わりがあり。
 始まりから終わりへ。繰り返し、繰り返し。re―



 祐希は、和葉の心臓を持っている。
 祐希は、和葉に呼ばれて俺たちの場所に現れた。
 奪え――
 何故――

 渦巻く感情を、裕季は自分で抑えることが出来ない。
 先に出てきたのは、熱い激情だった。

「和葉を、返せ……姉ちゃんの心臓、返せ……」

 ゆらりと立ち上がり、何かに取り憑かれた様に腕を祐希へと伸ばす。
 祐希は何も言わず、向かってくる腕をじっと見つめるだけ。
 手の先が、胸元に置かれた彼女の白い手にたどり着き、それを払い落とす。
 祐希は何も言わず、払われた手をだらりと落とし続ける。
 裕季の指が、ブラウスのボタンにかかる。指が動くたびに、上からボタンが外されていく。
 ――とくん、とくん。何かがまた裕季の中で訴える。
 祐希は何も言わず、なされるがままに胸元をはだけられる。
 ――日差しはなおも強く辺りを照らしていた。
 上から下までボタンは外れ、鎖骨から臍の付近までの真っ白な肌と淡いピンク色のブラジャーが露になる。
 フロントホックにも指がかかり、パチンと音を立てて左右に分かれていく。
 祐希は何も言わず、裕季の動く指先を眺めていた。
 ――とくん、とくん。強さが増す。
 肩紐が外される。二つのやはり真っ白な乳房と頂点にある薄桃色の乳首が目に入り、それから……

 下着を外す前から見えていたはずの生々しい手術痕が裕季の目に飛び込んできた。
 ――とくんっ、とくんっ。
 縦に刻まれた痕に指を這わす。
 祐希は何も言わず、露出した乳房の間の傷痕を這う裕季の指をじっと眺めていた。
 やがて、裕季の指が止まり、力が込められていく。徐々に徐々に、祐希の中に潜りこもうとする指たちは、柔肌を少しだけ押し込んでいく。だけど、当たり前のように肌と肋骨とに阻まれ、それ以上は進むことがない。ただ力だけが加えられて、2人に伝わるだけ。

 ――とくんっ、とくんっ。



「心臓、貴方に返しましょうか? それとも焼いてから残ったものをお墓に一緒に埋める?」

 それまで何も言わなかった祐希が口を開いたのは、膠着してからしばらくしてのことだった。

「これは和葉さんの心臓。貴方が望むのなら、私は返さなければならない」
「え……」

 そして、裕季が想像していたものとは違う言葉だった。

「私は心臓を受け取って、初めて色々なものを見られた。感じ取れた。体験できた。もう満足といえば満足してる。だけど、私だけ満足しても、心臓の持ち主の想い人が悲しむのなら、私は返さなくちゃとも思ってる。だから、返しましょうか?」

 ――とくんっ、とくんっ。
 身体の中が、肝臓が痛む。
 ……肝、臓……?

「私の中に居る和葉さんは、貴方が悲しむのを見たくないと思ってるから。強い想いが私にも伝わってくるから。けど、どうしたらいいか私にはわからないから、返して貴方が少しでも悲しみを和らげてくれることを期待するしかない。私はこれでも満足したから、今度は貴方が――」

 ――裕、季……
 ――ねえ、ちゃん……?

 裕季には、和葉からの声が聞こえた気がした。
 祐希の胸に食い込んでいた指が離れ、裕季の腹部へと向かう。
 目指すは、肝臓。

 とくんっ、とくんっ。
 身体が、熱い。

「貴方が、満足する番です。恩人である和葉さんから頼まれましたので、私は貴方が色々なものを乗り越えるお手伝いをしなければなりません。私はどうしたらいいですか?」

 ――私は、ここにも、そこにもいるから。悲しまないで。

「私のここと、」

 祐希の手に導かれて、裕季の手の平が祐希の心臓の上に置かれる。指先で感じたものとは違う、柔らかい感触と温もりが伝わる。

「貴方のここに、」

 裕季の腹部に置かれていた手に、祐希の手が添えられる。

「和葉さんがいることを伝える以外に、何をすればいいですか? 他には心臓を返すこと以外、思いつきません……」

 ――なんだ……
 混沌としたモノが、ゆっくりと解きほぐれていくのを裕季は感じていた。

「出来れば、心臓を返すことはしたくないです。悲しい縁から生まれたとはいえ、自分と同じモノを持つ人に出会えたんですから。計算によると、数千人から数万人に1人らしいですね、一致するのは。私達は偶々同じモノを持っていた……こんな奇跡を目の当たりにして、場から退場するのは少しだけ、悲しいです」

 二つの手のひらから、同じ温もりを感じる。
 これは、和葉の温もりだ、と裕季は思った。

「……心臓、返す必要ないよ」
「……?」
「君の中に和葉が居て、俺の中にも和葉が居る。それがわかれば、十分だよ。それ以外にしてもらうことなんて、俺にはない。ありがとう」
「それは、良かったです……」

 姉ちゃん、心配掛けてゴメン。
 ずっと悲しんでばっかりで何も見えてなかったけど、姉ちゃんの望みまで見失っちゃいけなかったんだね。
 自分勝手かもしれないけど、俺、もうちょっとだけ生きるから。
 姉ちゃんから受けとったモノを2つ、大事にするから。



 ――わかったよ。気付いてくれて、ありがとう。

 裕季の耳に再度、和葉の声が聞こえた気がした。
 聞こえるわけないけど、幻想なんかじゃないという強い確信があった。

「ところで……」
「ん……?」
「一つ頼みごとをしたいんですけど」

 大事な事を教えてくれた人の頼みごとである。
 裕季は黙って首肯した。

「そろそろ手をどけてもらって、ブラジャーとブラウスをちゃんと着てもいいですか? さすがにこれ以上見られるのは恥ずかしいので」
「……ごめん」

 手を祐希の胸からどけて、裕季は立ち上がって自ら壁になった。
 今更になって、とんでもない事をしていたんだと後悔した。



 そんな、彼が体験する出来事の終わりにして、始まり。
 始まりは、終わり。終わりから、始まる話。

 ――re-present――



 ――始話――

「脳以外の臓器が記憶や意識を持つ、ねえ……それは難しい話だな。現時点では全く解明されていない分野だからなあ。実際臓器移植によって、レシピエントがドナーの意識や記憶を共有するようになっていう実例は世界各地で報告されてるが、原因や仕組み、はたまた真偽についてもあっさりと確認できるようなシロモノじゃあない。人間の身体には、ヒトが踏み込めない領域がいくらでも隠されているんだから、わからないことの1つや2つでびびってるんじゃ身体もたないぞー
 まあでも、ロマンがあっていいんじゃないか? 脳以外にもヒトとしての概念が存在する箇所が存在するってことは、ヒト1人を構成するもの全てが成り立って始めて個になるって考えられるんだからな。脳だけが個たりえると考えるよりは味があるじゃん。
 たださ、これはこれで問題があるんだよ。主に倫理面で臓器移植という方策に影を落としちまう。あくまで臓器移植ってのは、各臓器を『個を持たない物』としてやらないと、ヒトに他人の個を移植するということになる。ここが賛成派と反対派の意見が分かれるところなんだ。あー俺? 俺の意見は伏せとくよ。今回はあくまで臓器の記憶についてなんだろ? じゃあ関係ないさ。次、次。何だっけ、ああ臓器の記憶か。もし臓器に記憶が宿るなら、各臓器にも『個』が宿ることになる。そしたら……あとは言わなくてもわかるよな?
 俺自身はさっきも言ったように臓器移植に対して賛成か反対かは伏せておく。というか、どっちでもないんだよ。臓器移植以外に現時点での治療法が確立されていない病気というのは存在するわけだし、かといって諸手を上げて賛成するには倫理的な問題も数多く残されてる。脳死判定自体が未だに難しい問題になってるんだしな。極端な話、どっちを取るかになっちまう。安易に賛成だの反対だのなんていったところで、当事者たちの抱くものを全て汲み取れない以上は単なる個人的意見の押し付け合いにしかならない。俺はそういうことに関してはっきりとした意見を言いたくないんだよ。どっちの気持ちも多少なりともわかるからな。あと、口調と違って意外と弱気なんだよ、俺。あー、その顔は信じてないな?

 ……また話がずれた。元々は何だっけ、臓器に記憶や意識が宿るか、だっけ。
 賛成とか反対とか抜きにして言うけど、俺は宿るんじゃないかと思う。その方が……素敵だからな。何、ああ、どうせ俺は単純だよ! ……コホンッ、で、なんで素敵かというとだ、臓器移植のときに、ドナーの意識が少なからずレシピエントに宿るってことになるだろ?それはさ、ドナーの潜在的な生が継続するってことに他ならないと思うんだ。ほら漫画でよくあるだろ、味方キャラが死んで、主人公が絶体絶命のピンチのときに死んだキャラの意識が主人公に『俺は、お前と一緒に戦うから、頑張れ』とかいうの。で、おりゃーと結局どんでん返しで勝つ、一昔前の少年誌でよくあったパターンじゃん。ニュアンスはかわるけど、それが現実にも起こるってことになったら素敵じゃないかい? ちょっとわからない? あーそう、それは残念……
 まあ、他にも根本的な問題が……え、なにもう取材時間終わり? くそう、漫画とか言うんじゃなかった、え、ちょっと、まだまとめが」

 プツン。
 ザーッ、ザーッ……

 ――終話――



 ――present――

 ある人が残したものが、2人へ受け継がれる。
 ある人の人生は残念ながら終わってしまったけど、2人での話は始まる。
 終わりは、始まりへ。



 秋が過ぎ、冬が過ぎ、春が来た。
 和葉から裕季と祐希に臓器が移植されて、1年。
 術後の経過は二人共順調だった。HLAの一致(和葉と祐希の一致はそれほど低くもないが、裕季と和葉という性別の異なる姉弟間の一致はほぼないことを繰り返す。ただ、肝臓移植に関しては、新薬の効果もありそれほど一致率が高くなくても影響は出ないといわれている)により、心配された拒絶反応や薬の副作用もここまでは現れなかった。
 無論、臓器移植を受けた患者にはいつまでもこの二つの問題が起こる可能性がある。副作用は薬を飲み続ける限り起こりうるし、一度拒絶反応が起これば死に直結してしまう。臓器移植という手法は危険な橋なのだ。
 それでも、現時点において生を繋ぐ貴重な架け橋でもあった。

 二人はあれ以来、たびたび会うようになっていた。
 それまでの偶然――というよりは二人に眠る和葉が引き合わせたものと、お互いに考えていた――によるものではなく、互いに連絡を取りあって、意志を持って会うようになったのだから大きな変化といえる。

 今日もまた、とある喫茶店で二人は会っていた。

「今日は天気がいいなー」
「そんなこと言ってると曇りますよ」
「……どういう理屈だ、それは……」
「なんとなくです、なんとなく」

 相変わらずきついなあ、と裕季は隠れて苦笑する。
 出会って最初の頃から気付いていたのだが、祐希という人間は会話の節々に毒を混ぜようとする性質があった。
 この辺は和葉と違うんだ……と、自分の中に眠る人に言い聞かせて、再度苦笑。

「……隠れて苦笑して、気持ち悪いですよ?」
「いや、まあその、というかちょっとは優しくしてくれたっていいような気がするけど……」
「何で優しくしなくちゃならないんですか。激情に任せて墓地の真ん中で人の服を脱がせるような人に」
「だーっ! それはあの後何回も謝ってるだろうが! つか、店ん中でそんなこと言うな!」
「警察に捕まったり?」
「わかってて言うなっての!」
「そう……残念」

 がくっと裕季は項垂れ、それを見た祐希は静かに笑う。気を取り直した裕季も笑う……
 いくつかの季節を過ぎて、二人の間で何度も生まれた光景だった。

 肝臓の移植を受けた裕季と違い、祐希は心臓の移植を受けた。術後、月日が経過するごとに死亡率が高くなるのは心臓移植の方である。
 二人共それがわかっているから、今という時間を共有することを大事にしている。

「生きるって、いいこと。つまらなくても、生きてることはいいこと」

 不意に、祐希が最初のときに放った言葉を再度紡ぐ。
 既に、裕季が何度も聞かされた言葉の始まりでもあった。

「貴方は……裕季は、わかってる?」

 ――裕季は、わかる?

 祐希と和葉の声が、裕季の中でかぶる。
 答えはもう、わかってる。

「わかってるよ。どれだけつまらなくても、色を失っても、生きてれば何かがあるから。例えば……」

 ――奇妙な一致を見せた人と出会う、とかでしょ?
 ――それは言わないでくれ……

 テーブルの上に身を乗り出し、裕季は目の前に居る人物の唇に軽く、口付けをした。
 出会った頃よりも白さは消え、以前より健康そうな肌色をした頬が、紅く染まる。

「こういうことも、出来るし」
「……馬鹿な人です……」

 元の位置に戻り、目の前で小さくなった女性に、裕季は再度小さく笑った。

 ――姉ちゃん、ありがとう。
 ――どういたしまして。

「さて、そろそろ行くか」
「……ですね」

 赤みが引くのを十分に待って、二人は席を立つ。

「そういえばずっと気になってたんですけど、さっき買ってたのは何だったんです?」
「これ? 中身は観葉植物だよ、偽物の」
「……まさか、それが供え物?」
「いや、ちゃんと食べ物もあるよ。サンドイッチ作ってきた」
「それはそれで適切じゃないと思うんですけど」
「いいんだよ、本人好きだったし。それにこの偽者はいたく気に入ってたし、贈り物のお礼みたいなものでもあるから」
「なら、いいですけど。でも、うーん……」
「気にしない気にしない。中の人に聞いてみたら?」
「それはちょっと違う気がしますけど。まあ、気にしないようにします」
「んじゃ行くか」

 立ち上がり、会計を済ませて店の外へ。
 麗らかな春の日差しが、辺りを優しく包んでいた。
 裕季の差し伸べた手に、祐希の手が重なる。

 目指す目的地は10数駅離れた地。夏場はセミの鳴き声に囲まれる、山間の地。
 和葉の眠る場所へ。
 贈り物を受けた2人が、お礼の贈り物を渡しに。



 ――End and re-――