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place of happiness/1話

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 走る。走る。走る!
 俺は無我夢中で走っていた。
 ただ真っすぐ走っているだけじゃない。大きく左右に振れつつ、しかも全速力で。ボクシングの選手がロードワークで左右に跳んで進むのよりも、ふり幅を大きく。
 時折乾いた火薬音と共に近くのアスファルトが抉れる。

 間違いなく、銃弾。当たったらただごとではないどころでもない。まず、死ぬ。殺される。腹部もしくは頭部に当たれば即死だし、別のところに当たっても失血死、あるいは動きが遅くなって見るも無残な銃殺体の出来上がり。

 息も絶え絶えになりながら、何でこんなことになったのだろうと自問。酸素が足りない頭の割りに、すぐに解答を見つける。
 なぜなら答えが簡単だから。

 ――あの女のせいだっ!

 名前すら知らない彼女の顔を思い出しては、激しい後悔に襲われる。

 あんな頼みを引き受けなきゃよかった、と。
 後悔を引きずりながら、走る、走る、走る!



 話は1時間前、正午を過ぎてちょうど昼寝の時間帯というところまで遡る。
 折角の日曜だし、陽気だし、というまるでひきこもり少年外に出るの巻的な思考で駅前の大型スーパーやらCDショップやらを散策して、モスバーガーでフレッシュバーガーオニポテセット飲み物はアイスコーヒーという個人的にはベスト3に入るファーストフード店セットメニューで優雅な昼食590円に舌鼓を打ち多少の満足感を得て店外に出てから約2分。突如、前から声をかけられた。

「ちょっと、キミ」

 振り向いた先にいたのは、ダークブラウンのセミロングがよく似合う、快活そうだなと思える女性が立っていた。一般的といえるダークグレーのスーツに身を包んではいたが、雰囲気や顔のあどけなさが抜け切っていないところから、予想年齢、俺以上20以下。微妙にスーツ姿が新人OLよりも似合っていない。

「何の用ですか?」

 そんな女性が、俺に声をかける。一歩引いた態度に撤することにした。女が声をかけてくるなんて、いいことであったためしがない。
 微妙な間合いを察したのか、すっと一歩踏み込んできて、やや幼くかわいらしい顔とは裏腹の切羽詰まった表情でこういった。

「私を、手伝って」



「あん時にちゃんと説明しとけよなぁっ!!」

 誰にでもなく愚痴をこぼしながら、それでもひたすら足を動かす。残念ながら後ろから来る人々は人生相談には向いていない。彼らに話を聞いてもらったところで持っている凶器でズドン、それはそれで解決にはなるだろうが、あいにくと望む方法ではない。つか、死にたくないからこうして逃げてるわけで……
 嘆きと殺意の堂々巡り。
 あの時受けた説明はこうだ。

『私を手伝って。何、簡単な仕事よーこの封筒持って新宿東口まで来て。はいこれ電車賃。余りがお駄賃』

 ……今振り返ると怪しすぎだなこの封筒、と手にした極々一般的な大型茶封筒に目をやる。薄っぺらい中身から察するに、恐らくは超重要機密書類かなんか、付け加えるなら裏ルート系で犯罪がらみなのだろう。
 でなきゃ、後ろのお兄さん方が物騒なものを打ちまくったりしない。
 死にそうだからどうでもいいけど、渡された金額だと新宿までたどり着けない。経費は落ちるのだろうか?

「てか、無理矢理渡されて俺、引き受けるともいってなかったなあ……」

 今更ながらの事をぼやきながら、不意を突いて細道→大通りと進んでどうにか追っ手を撒き、駅の改札を通過する。Suicaにチャージしてあって本当によかった。いや、本当に。今ばかりはJRに感謝。よく止まるけど。
 ……ここで止まったら洒落にならないな、などと思いながら、ホームに滑り込んできたオレンジ色の電車に乗り込んだ。



 込みあう中、有象無象の人並みを掻い潜り改札を通過して、はたと止まる。改札、というだけで、そこで何をすればいいのかという肝心要の指示を受けていない。どうやら俺に頼み事をした人物はこの辺りに思考が及ばないようだった。仕方ないので改札を出て右手、切符売場の前で佇む。
 もちろん狙われてはいるのだろうが、追っ手の気配はない。ついでに、この人込みを縫って銃弾を俺に当てるのはもはや神業レベル、例えるなら新宿の種馬クラスでなければ不可能だ。つまりは、近づかれなければいい。もちろん変装なんてされた日にはジ・エンドだろうが、そこまで考えそうな追跡者でもなかっただろう。多分。

 この場に止まること約2分。

「君かな? あいつから書類を受け取った少年というのは」

 グレーのシックなスーツに身を包んだ、上品な紳士というべき中年男性が俺に声を掛けてきた。
 残念ながら、俺はそこまで短慮ではない。早く渡しておさらばしたいのは山々だが、この男が奪いにきた奴だとも限らない。無視無視。
 ところが、やはり彼が書類を正しく受け取るべき人物だった。懐から携帯を取り出し、どこかに掛けてから俺の方にスピーカーを向ける。

『あ、電話、てことはあれね、とりあえずこのいけすかない男に封筒渡してね。じゃ』

 あの時の女の声だった。それは間違いない。いくらなんでも間違えない。

「これで信じてもらえるかな?」

 少し疲れたような表情で告げる男。俺は、持っていた封筒を渡した。

「うむ、すまないね……危険なことに巻き込んで。まさか一般人を使うとは思いもよらなかった……」
「ええ、まさか一般人の俺が銃弾の間を駆け抜けるとは思いませんでした」

 精一杯の皮肉で答える。すると彼は更に疲れた様子を見せた。

「本当にすまないね……彼女の行動は予測がつかなくて、こちらもほとほと手を焼いてはいるんだよ」

 少しだけ、この目の前の男に共感が持てた。



 場所をスタバに移して、謎の男と談笑する運びとなる。走り回されてかなりの疲労を覚えていた俺は、やけくそにアイスカフェラテとレタスサンドを注文。男はエスプレッソを頼んだ。

「煙草は大丈夫かな?」
「ええ、構いませんよ」

 席に着くなり男はこう尋ね、了解を得て胸ポケットから赤マルとジッポーを取出し、手慣れた動作で火を点ける。煙草の先から一筋の紫煙が立ち上り、天井のエアーコンディショナーへと吸い込まれていく。
 深々とニコチン入り紫煙を吸い込んでは吐き出した後、男が話し始めた。

「こう見えても、我々はちゃんとした公組織に所属してるんだよ」

 懐から黒光りする手帳を取り出す。
 例の金色の紋章、そして、“警視庁”の文字。
 テレビでお馴染み、桜田門の治安機関に所属する証である。

「まあ既に推察しているかもしれないが、警視庁の中でも情報を取り扱う部門の人間でね。こうして、麻薬取引を裏付ける物を入手したり解析したり、ね」

 机に無造作に置かれた封筒に目をやりながら話していく。
 手帳を開いて見せてくれた。そこには彼の名前と階級が掲載されていた。

 東野俊一。階級、警視。

 自分の顔が引きつるのがわかる。別にやましいことはしてないのに、だ。大体、警視クラスなんてそうそう市井で出くわすもんでも話し合うこともない。それに、警察のお偉いさんというものにあまりいいイメージを持っていなかった、というのもある。
しかし、今の目の前の東野さんには、そんなイメージの欠片すら抱かせない、正反対の印象を覚えた。所詮はマスコミが騒ぎ立てる不祥事、ということだろうか。



「……で、何故警察の幹部クラスが彼女とつながりを持っているんですか?そもそもいったい彼女は何なんです? まさか彼女も捜査員、ということはないでしょう?」

 相手の身元が分かったところで、目下一番気になる部分に触れてみる。といっても、ある程度の予想はついており、それを確かめる行為となるのだが。

「彼女はいわゆる情報屋だ。といっても、正確には情報屋も請け負っている、といった方が正しい」

 予想の一個上を行く返答だった。単なる情報屋ではなさそうだ。
 ふむ、と思案したところで東野さんが自身の腕時計を見やった。

「……おっと、すまない。次の用事があるもので、そろそろ行かせてもらうよ。最後に一つ。君の名前は?」

 相手が教えてくれたのだから、こちらも明かすのがマナーである。

「葛城啓介。都立高二年です」
「ふむ……またいずれ会うことになろう。そして彼女とも、ね。では」

 一人スタバの店内に残され、思考。
 また、名前すら知らない彼女と会うことになる。残された予言だ。
 何となく、これからも厄介ごとに巻き込まれそうだと感じた。



「いや、まあ出くわすとは思ったんだけどさあ……」「何?文句あるの?」
「いえ何にもとりあえず今は」

 とりあえず、盛大にため息を吐いといた。
 話は数分前にさかのぼる。

 一人スタバの店内に残されて、もういっそ開き直ってやるとレタスサンドを頬張り、アイスカフェラテに舌鼓を打ち、今時の優雅な午後を堪能しなおし終えた、そんなタイミング。
 店を出て3歩。

「やっほー少年」

 つい先程、優雅な午後の一時を邪魔してくれたあの女の声が、俺の背後を強襲する。
 会うんだろうなあ、とは思ったがまさか即日面会とは思っていない。過密日程は胃に悪いとはある作家の弁である。全くもって、その通りだった。
 そんな意識があるもんだから、自然と足は逃げるように歩みを速める。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
「やだ。もう厄介ごとに巻き込まれたくないし」
「違うわよ! ちょっぴり申し訳ないことしちゃったな~って思ったからお詫びにマックでおごってあげるつもりだったのよ!」

 この会話のあと、俺は結局了承して冒頭にいたるわけである。
 どうも俺は、マックで許す安い男らしかった。自分自身の価値をもう少し高めた方がいいかもしれない。



 マックに着くなり「チーズバーガーセットでいいわよね?」と有無を言わさぬ勢いで尋ねられ、「飲み物はコーラで」としか答えられなかった。
 先に席を見つけて待つことしばし。運ばれてきたトレーの上にはチーズバーガーセットとビックマックセットが揃っていた。どうせなら、さらに安いハンバーガーセットでもよかったのに。チーズはやけに高いのだ、マクドナルドでは。

「……」
「……何よ、その物言いたげな視線は?」
「……いや、食い過ぎは身体に悪いぞ」

 彼女は「いいのよその分運動してるから」と意に介さないようにビックマックの箱を開けて中身にかぶりつきだした。
 言いたいのはそんなことではなかったが、おごってもらう身分であるうえに先程のレタスサンドが未消化ということもあり、俺も続いてチーズバーガーの包みを開けかぶりついた。
 珍しく出来たてだったのだろう、湯気が食い口から立ち上る。

「あーずるいずるい!そっち出来たてじゃない!こっちと交換してよ」
「ガキかっ!?半分以上食ってから文句言うんじゃねえ!」

 ――彼女には手を焼いてるんだよ。

 この言葉の意味が、さらによくわかった。



「で、だ」

 ポテトに手を伸ばしつつコーラを飲みつつと、学生が行う正しいマックでのダベり作法を実践しつつ、話を切り出す。

「にゃひひょ?」
「……食い切ってから返してくれ」

 口をもごもごさせて「にゃひひょーひょっひひゃひゃにに」とかなんとか少なくとも日本語ではないものと断言できる言語を駆使してから、その原因となったビックマック一口半分を飲み込む。

「食べてるときに話し掛けないでよねー」
「その前に食べおわってから話しだしてくれ。そんくらい待つからさ……」
「それならそうといってよねー早く食べないですんだのに」
「言わなくても普通わかるっ」
「失礼ねーそれだと私が一般常識の欠けた女みたいじゃない!」
「みたいじゃなくて実際そうだっ!」

 はあはあと、互いに肩で息をする。
 俊一さん、あなたはやっぱり偉大です。俺には、無理。



 こほん、と色んなモノを一緒にまとめて咳払い一つ。ようやく話を始める。

「それで、結局おまえは何者なんだ?」

 今、一番聞きたい事。直球をど真ん中に投げ込む。

「私?」
「そ。あんな厄介事に巻き込んだんだからそのくらい聞ける権利はあるだろ」
「ナンパのパターンとしてはまあまあね」
「どっちが先に声かけたかわかってるんだろうな?」
「さあねー」

 手の平をはためかせて言うもんだから実に小憎たらしい。
 が、次の刹那に見せた彼女の表情は、真面目で、しかし生きた表情だった。

「そんなに、聞きたい?」

 思わず、見入ってしまった。今までの子供っぽい振る舞いとは違う大人の、しかも充実した姿。
 俺に欠けているモノ。

「あ、ああ」
「だったらまず君のこと聞かせてよねー銃弾掻い潜る根性ある人なんて、私以外いないと思ってたし」

 そんな根性持ち合わせたくなかったけど、なんて軽口の返却は出来なかった。
 既に先程までの表情に戻っていた、子供と大人を併せ持った女。
 興味の持てた俺は、割と素直に自分の簡単な紹介を始めていた。



「葛城啓介。都立高の2年だ」
「へえ……平凡な人生歩んでそうね」
「銃弾の嵐を掻い潜らない程度にはな」

 こちらの中を見透かすかのような視線に多少緊張しながらも、精一杯の皮肉で押し隠す。
 その皮肉は、相手には効果絶大の一撃となったようだ。

「そ、それは悪かったわよ!」
「……本当に悪かったと思ってるのか?」
「それは本当よ!まさか市内で見境なく発砲するほど頭悪い集団とは思ってなかったわよ!」

 そりゃそうだな、と軽く納得しかけたところで、こんな言葉が飛び出す。

「せいぜい投げナイフくらいだと思ってたわよ……」
「十分危ないだろがっ!」

 はあ、と疲れ切ったため息を放出。ふと思ったが、ナイフは普通投げるものではなく、構えてさすものだ。奴らは曲芸師か……?

「……で、普通の高校生やってる俺なんかどうだっていいんだよ。それより、おまえは何
者だ?」
「私?私はねえ~……」

 そこで一呼吸、二呼吸。ためを作ってから彼女はこう言い切った。

「単なる幼気な女子高生よ」
「なわけあるかあっ!!」

 ああ、我ながら改心のツッコミ。
 ところが目の前のわがままお姫さまは、なぜか盛大な勘違いをしてくれたようだった。

「なによ!私は決してフリーターじゃないわよ!」
「誰もんなこと言ってねえ……」

 頭がイタイ。
 誰か、こいつの頭の中を一回覗いてみてくれ。虹が詰まってるだろうから。



「……で、そのフリーターじゃない幼気な女子高生様はいったいどこのどちらさんですか
ねえ?」

 氷が溶けだし、水っぽさが舌につくコーラをストローでもてあそびながら進める。気分はカウンセラーか、小学校の教師か。
 ……将来の選択肢からこれらの職業を消し去ることにした。

「名前は東野雫。歳は君より一つ上の18。職業は……いわゆる何でも屋ね」
「……東野? てことは……」
「そ、あの男の娘よ。義理だけど」

 ふむ、と思わず唸ってしまった。どういう経緯で今があるのかは知らないし、詮索するのはNGだと思うが、それでも何かあったからこそ今があるのである。少なくとも俺みたいな平凡な人生ではないだろう。

「……へえ。何も聞かないのね」
「当たり前だ。人の過去なんざそいつが話したいときに話してもらうのが一番いいに決まってる」
「ふーん……」

 何やら感心したように頷く。そして一瞬何かを思案するように目を細めてから手を打ってこう言い放った。

「年寄り臭くていいわね」
「んな感心の仕方はやめてくれっ!」

 会話に、進歩がない気がする。



「まあいーじゃない。若いうちに、しかも平々凡々な人生を歩んできたのに老成された精神をもつのはいいことよ」
「それ、絶対皮肉だよな?」
「むしろ僻みよ。何で私のほうが年上なのに大人っぽく見えないのよ……」
「あ、気付いてるんだ?」

 それを聞いて彼女は悔しさ爆発、といった表情を見せる。
 ……この人はいつもこんなに感情豊かなのだろうか。括約筋がきっと柔軟で頑丈なんだろうと考えてみる。どうでもいい思考だなあと少し反省。

 などとやっているうちに、彼女は時計を見やって顔色を変える。

「やばっ、もうこんな時間じゃない!私次の仕事入ってるから片付けよろしくっ」

 すたっと立ち上がり、駆け出す寸前5秒前。

「な、ちょ、おい!?」
「どうせまた会うことになると思うからよろしく~じゃあね~啓介君」

 引き止める(もちろん自分の分くらい片付けていけよと言うため)間もなく、彼女は店外へと消えていった。あとに残されたのは、食い散らかしたゴミの数々。ついでに呆然自失といった感じの俺。
 慌てて出ていくのは血が繋がっていなくても同じだなあ、などと呑気に考えつつ、微妙に炭酸の抜けたコーラを啜った。



 なんというか、とりあえず1年間はこの先平凡でいいですと神様とやらに土下座したくなる1日だった、などとへたれたポテトを食べつつ振り替える。ふやけたポテト特有の塩気の強さが思考をクリアなモノにしていく。

 ……何でも屋、情報屋。本当にそんなものが存在するなんて。しかもそれが、自分の前に現われるなんて。さらにその人物があんな奴――女である、という点と少し抜けているという点において――だとは。現実は小説より奇なり、とまでは思わないが、小説並ではあるなと唸ってしまう。

 知らず知らずポテトに手が伸びる。へなちょこポテトの魔力。塩気のおかげで飲み物にも手が伸びる。おそるべし、ファーストフードの魔力……などと阿呆なことを考えて軽く現実逃避。だがすぐに、来たる未来へと想像が伸びる。
 あの二人の様子やら口ぶりから、どうやら今後たまに厄介事に巻き込まれそうである。ついで言えば、命も危ういようなこと――今日のような出来事よりもさらに危険かもしれない――にも遭遇するかもしれない。いや、二人についていけば確実だ。

 ……それでも。

 はっ、と自嘲。

 どうやら自分という人間は、非現実な現実を望んでいるらしい。
 ついていってやる。
 裏側に飛び込んでやる。

 本当の現実を求めて。



 波瀾万丈の一日を乗り切ってようやく家に辿り着く。鍵穴に鍵を差し込み扉を開けた先には、誰もいない空間。またかよ、と一つ呟いてリビングまで進み、テーブルの上に書き置きが置かれているのを発見する。指先で紙をつまみ、中身を確認しては頭痛を覚える。

『何となく旅行に行きたくなったからまた父さんと母さん、旅行に行ってくるね~今度は東欧の神秘(東洋じゃないぞ♪)に触れてみたいから、ひと月くらい帰らないかも♪ その間はよろしくね~あ、一応お金はあんたの口座に振込んであるから♪足りなかったら……ドンマイ♪
ばーい親愛なる母より』

 しばし無言。そして、いつものことじゃんと気を取り直して今晩の献立を考える自分。 両親は奇妙な人たちで、普段は共に作家でそれなりに売れていたりもするのだが、こうして時折ふらっと何処かに旅立って――文字通り“何処かに”だ――しまうのだ。その間、一人息子は家に取り残されて日常生活を満喫するのだ。

 ……これも一般家庭からすれば非現実ではあるよなあ、なんてことをぼやきながら、冷蔵庫をあさることにした。



 ああ疲れた、とため息を吐いて、冷えた豚しゃぶに箸をのばす。今日はさっぱり豚しゃぶに、とCMばりのキャッチフレーズを思いついて、チルドに眠っていた豚ロース薄切りを発見したのが1時間半前。残念ながら他の品も用意するとなると、お手軽簡単に豚しゃぶ完成、というわけにはいかないのだ。真実はCMの中になし。実体験こそが、理解できる事実なのだ。

「はあ」

 今度は一つ大きなため息をつく。今日はせっかくの休日だったのだが、休めた気はしない。はっきり言うなら、疲れた。
 でも、充実はしていた、とも思う。これはマックのポテトを食っていた時点でも自覚していたが、家という日常の拠点に帰ってきてより強く感じる。

 表と裏。世界には、見えるモノと見えないモノがある。今日はその見えないモノまで見えてしまった。
 小説やドラマばりのディープで、命が危険にさらされる世界。
 見えてしまった以上、もっと深く見たい知りたい。

「でも明日からまた学校だからなあ……しばらく無理か」

 一人ごちつつ、出汁からとった味噌汁を啜った。


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